夜の帳が下りる頃

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 その人は長谷川 留衣斗(はせがわ るいと)と名乗った。  涼義兄さんと凄く仲が良くて、大学でもいつも一緒で遊びに行くのも一緒だと。 「この前も飲みに行ったんだけどさ、涼一凄い酔っ払ってね」 「へー、義兄さんは酔うとどうなるんですか?」 「それがさー、説教臭くなるんだよ、これが酷くてね」 「ウソ?」 「ホントなんだって」  俺の知らない涼義兄さんの話は凄く面白くて、話し上手な長谷川さんに色んな質問をした。  大学でもモテるらしく、友達もたくさんいて楽しんでいるとか。 「酔うと説教臭いって、長谷川さんも説教された?」 「されたよー! 自分なんてカモフラージュで千夏と付き合ってるって嘘吐いてんのに」  そう言って麦茶を飲み干した長谷川さんは、真顔になった俺の顔を真っ直ぐに見た。  たった今話してくれた事を何度も頭の中で繰り返しても、突然過ぎて思考は追いつかない。 「酷いよね? 俺がいるのに」  音が無くなったみたいだった。  麦茶に浮かんでたはずの氷は既に溶け、クーラーがかかってる室内でも少し蒸し暑いくらいに感じる。  その時の俺は余計な事ばかり考えてて、長谷川さんの手に握られていたグラスが強くテーブルに置かれると肩がビクッと動いて彼に視線を向けた。 「家族が理解してくれないんだって」 「…………え?」 「ムカつく奴だよね。結構傷付いたんだよ?こう見えて」  今までと違う声色、そして鋭い目の奥に揺らめく怒りと欲望に動けなくなった。  目を離したらきっと酷い事が起きる。警鐘は蝉の鳴き声と同じくらい頭の中で繰り返されるのに、目を逸らすことも指を動かすことも躊躇われる。  まるで肉食獣に襲われる前の弱い生き物、そんな気持ちだった。 「男同士だと気持ち悪いって、そう思ってるんでしょう?」  そんな事ないって言いたいし、自分だって涼義兄さんのことを好きだったから否定したいのに首を振ることも出来なかった。 「分からないから嫌悪感があるんだよ。……だから、教えてあげようか?」  艶めかしい雰囲気に変わる長谷川さんは、可愛らしい顔を上気させ、まるで猫みたいに近付いてくる。 「あの……まっ、」 「大丈夫だよ、気持ちいいだけだから」  甘ったるい囁きに一瞬にして顔が熱くなる。本やネットの知識はあっても、こうして他人が自分に向けてくる欲情は勿論初めての事で、振り払う勇気も受け入れる勇気も俺には無かった。
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