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第一話 いきなり始まったソレ
遠くから白い光が迫る。
ふわふわと空を飛んでいるような。
おーい、おーい、おーい。
わたしは鳥になったのだろうか?
*
目がさめると、彼女はそこにいた。
どこかの建物のなかだ。それも、かなり大きな建物のようだ。広いエントランスホール。人工の照明が明々とあたりを照らしている。
目の前に白い服を着た人が立っていた。顔はマスクやゴーグルで隠され、手にも青いビニールの手袋をつけ、よくテレビなどで見る感染病棟の医療従事者のようだ。
意識がもうろうとしている。なんとなく体がだるく、自分の状況を把握できない。
よく見れば、まわりに自分以外の人たちが大勢いる。
それを見て、初めてギョッとした。みんな両手足を結束バンドで縛られている。その上で椅子に固定されていた。
どうやら、彼女もそうされているようだ。自分の体を見おろすと、胸に名札がついていた。角度が悪くて文字が読めない。
(名前……名前……わたしの名前……)
不思議と思いだせない。
自分がどこの誰で、今ここで意識が戻る前、何をしていたのか。
こういう状態を記憶喪失というんじゃないか、ということは知っていた。つまり、記憶のすべてが消えているわけじゃない。何かのショックで一時的に混乱しているのかもしれない。
そんなことをぼんやり考える。
目の前の白衣を着た人物が、注射器を手にしていた。もともとアンプルは入っていたらしく、彼女の服の袖をまくって、針を刺してきた。よくわからないが奇妙なピンク色の液体が、彼女の体のなかに入ってくる。
白衣の人はほかにも数人いた。手ぎわよく、次々に拘束された人たちに、同じピンクの薬剤を注射していく。
そのせいか、ふたたび意識が混迷してきた。眠ってしまったのだと思う。
どれくらい時間が経過しただろうか。
彼女はまた目をさました。
さっきとほとんど状況は変わっていない。ただし、白衣の人たちはいなくなっていた。それに、手足の拘束もとけている。
エントランスホールには全部で三十人ていどの人がいた。ぐるっと円を描いてならべられた椅子にすわらされている。男もいれば女もいる。年齢は十代後半から四十代までだ。
彼女は気になっていた名札を持ちあげて、そこに記された名前を確認した。
結城詩織——
それが、自分の名前らしい。
ほかの人たちも目をさましつつあった。
いったい、これはどういうことなのだろうか?
なぜ、自分はこの人たちと、知らない場所にいるのか?
戸惑っていると、とうとつに天井から声が降ってきた。マイクを通した音だ。この建物のなかには館内放送をする場所がある。
「あなたがたは被験者です。さきほど、全員に注射を打ちました。その多くはただのビタミン剤です。ただし、被験者のなかで一人だけ、我々の開発した試験薬を注入しました」
試験薬の被験者。
新薬の治験のアルバイトの話は聞いたことがある。しかし、詩織はそういうものに自分が申しこんだ記憶がない。そもそも、ほかの記憶もないのだが……。
(もしかして、わたし、何かの治験に申しこんだのかな? それで記憶がなくなるようなそんな薬を使われたの?)
そう考えれば、あるていど納得はいく。
アナウンスはさらに続いた。
「試験薬の効果をこれから説明します。きわめて重要な事項なので、みなさん、よく聞いておいてください。その薬品の正式名称はまだ内密にさせてもらいます。かりに、グールウィルスとしましょう」
グールウィルス……何かのウィルスだろうか?
しかし、ふつう治験では薬の効果を試すものだ。ウィルスを注入するなんて、ありえない。
「ウィルスと言っていますが、ウィルスではありません。この被験者と接触しても、第三者には感染しません。みなさんにわかりやすい便宜上の呼称にすぎないのです。この薬品は人間をじょじょにむしばみ、一週間以内に特効薬を打たなければ死にいたります。体内のタンパク質が過剰に分解され、神経系等に異常を起こしたり、症状が進めば身体の一部がくずれおちます。端的に言えば、細胞が壊死します」
とつぜんのおかしな発言を聞いて、急にまわりがざわめく。
「壊死? 何言ってるんだ?」
「体がくずれるって……」
「やだ。そんなの……」
泣きだす女の子もいる。
詩織だって身ぶるいがついた。もしも自分がその一人だったらどうしようと思う。
「ただし、進行を食いとめる方法が一つだけあります。グールウィルスのおもな症状はタンパク質の分解です。人体のタンパク質の喪失は人体からのタンパク質で補えます。つまり、一日一回、人肉を食べてください。量は成人の片腕半分でけっこうです。そのようにすれば、壊死をふせぎ、進行を遅らせられます」
悲鳴があがる。
なんていうことだろうか。
人肉を食べる?
そんな恐ろしい行為をしなければ生きられないなんて、いくらなんでも治験の域を超えている。倫理的にゆるされないのではないのか?
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