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彼女が指さすのは先ほど車が来た方向。蠢く波を押し潰し、先ほどより巨大で明るい一対の光が、地ならしを立てて走ってきた。
「あれバス! バス来たよ!」
僕たちのいるバス停にゆっくりと止まったバスは、ノイズの走った音を立てて扉を開く。
「乗っちゃだめだよ」
バスの中には誰も居ない。運転手の顔は帽子で隠れて見えない。
「え?」
彼女はバスのスロープに踏み込みかけた足を戻す。
「そのバスは君の乗るバスじゃないよ」
僕は淡々と話す。バスの扉は締まらない。彼女を誘い込むように、生ぬるくて、あたたかな風が中から流れてくる。
「それに乗ったらもう戻れないよ」
僕は行ってしまったバスの来た方角を指さす。
「あっちにひたすら歩いて。雨が降ってる間なら戻れるから」
「……それじゃあ君はどうするの?」
「わかるでしょ? 僕は、ここから動けないんだ」
僕は足元を指さす。僕の体はもう、完全にこのベンチに根付いてしまった。桜の木とその下に埋まった死体の様に、僕とベンチは一心同体。もうここから動くことはできない。
「雨宿りはおしまいだよ。早く帰って。雨が止まないうちに」
「でも!」
「でもじゃないよ。もう時間が無いんだ。急いで!」
ぴちょん。ぴちょん。
雨はまだ止まない。今ならまだ間に合うだろう。
「そしたら君は! 君はどうするの!?」
「僕は大丈夫。君が帰ったら、どうにかするよ」
彼女は僕の言葉を聞いて、僕に抱き着く。生きた人間らしい、暖かさが僕の芯まで冷えた身体に触れる。
「何してるの? 早くしないと手遅れになるよ!」
「行かないよ! 言ったでしょ! 絶対に! もう絶対に置いてかないって!」
ぴちょん。ぴちょん。
抱きしめる手が震えているのが分かる。顔からは落ちた涙が僕の手を濡らす。
僕がこの場所に来てから、このバス停には何人もの人が訪れた。
僕を不気味がる人、置いて逃げる人、おかしくなってしまう人。僕の嘘を信じて戻らない人。
全員。僕が全員、帰れなくした。
「大丈夫。分かった約束しよう。絶対にまた会えるから。ね?」
僕は彼女の背中を優しく叩き、彼女をトンっと彼女を道路に突き飛ばした。
急な出来事に彼女は足をふらつかせ、道路に停まっていたバスの中に転ける様に乗ってしまう。
「え、ちよっと!」
バスの右側面に付いた扉が閉まると、バスは走り出した。彼女が泣きながら何か叫んでいるが、バスに遮られ聞こえない。
その泣き顔は、毎日思い出す、記憶の彼方に仕舞われたあの子にそっくりだった。
ぴちょん。ぴちょん。
バスが完全に見えなくなり、雨も止み屋根の上で暴れていた音も消えている。
ぴちょん。ぴちょん。
僕の後ろから地面を踏む足音が近付く。
僕の役割は、迷い込んだ人を左側に向かわせること。それを行えない僕がどうなるか。
身体に無数の腕が巻き付き、僕を包みこむ。
「はーあ。まぁ、これが妥当な結末だよね。でも、出来ればもう一度、彼女の顔を――」
ベンチごと引きずられ、右側でも左側でもない。背後の暗闇に引き込まれた。
ぴちょん。ぴちょん。
バス停の屋根は崩れ、バス停はもう雨宿りとしての機能をなくしていた。
あるのはいつか完全に風化して、誰の記憶にも残らないトタン屋根の残骸。
一対の明かりと共に、バスが走り去っていく。このバス停に、バスが止まることはもうない。
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