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序
うららかな春の陽気の中私は原稿を執筆するその手を止め、ふぅっと革製のそして上等な椅子の背もたれに体を預けた。
うつらうつらと窓から流れる春風に意識を預けつつ流れるラジオの音に私は耳を傾ける。
ラジオからは懐かしいドラマが流れている。それは六十年程前の私がまだ二十代の頃に放送されていたドラマをリメイクした物だった。
使用人が部屋の戸を叩いた。
「旦那様、お客様がいらっしゃいました」
今日は特に誰とも約束をしていなかったはずだ。
「本庄様のお孫さんです」
「あぁ、一葉さんか」
私は客人を通すように伝えた。
入ってきたのは二十代前半品の良いの若い娘、私の大学時代の先輩の孫に当たる娘だ。
「相楽のお爺さまお久しぶりです
突然伺ってしまいごめんなさい。」
「いや、構わないよ。どうしたんだい今日は」
彼女は大きな鞄からクリアファイルを取り出した。
「この曲、次のライブでカバーしたいと思っているんですけど良い、ですか?」
と、彼女が取り出したのは数枚のコピー用紙。何か古びた楽譜のような物が印刷されていて所々読み辛くなっていた。
私はそれを手に取りまじまじと眺める。曲名は無くとも作曲者の名前は書いてある懐かしい名前だ。
これを何処でと尋ねると、彼女は
「お祖父様の家の蔵です」
と、返した。
あの人がまだこんな物を持っていたとはと私は驚きを隠せなかった。
物に執着の無いあの人はとっくにこんな物捨ててしまっているだろうと思っていたからだ。
しばしあの頃の記憶に思いを馳せていると彼女は懐からカセットテープを取り出し部屋にあったラジカセに挿入し再生させた。
雑音が多くとても聞けた物では無いが聞こえる演奏、優しく繊細なこのヴァイオリンの音を間違いなく私の知っている、この曲を作った男による演奏だった。
私はそれに耳を傾けふと、あの頃を思いだす。
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