第1話 「ニューヨーク」(その1)

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第1話 「ニューヨーク」(その1)

 昭和59年9月22日土曜日、山岡弘明はNYのJFケネディー空港にいた。ロンドン行きのチェックインカウンター前に並び、その最後尾で苛立っていたのだった。  出張の予定は、アメリカ西海岸から東海岸を経てイギリス・オランダ・ノルウェー、そしてデンマークのコペンハーゲンに寄って大阪に帰る、約1ヶ月の行程だった。  弘明が勤めていた富双造船は入社後2年で倒産し、更生法下で再建中だったが5年で破綻。故郷で妻子と幸福な生活を送るはずが、三十歳にして路頭に迷うことになった。  実家で糊口を凌ぐ内に、人の紹介で神戸の芙蓉貿易へ転職して2年、心機一転技術屋として初めての海外出張だった。だが倒産直後の自由気ままな旅とは違い、緊張もひとしおの弘明だったが、既に二つの不安を抱えていた。  一つは伊丹からサンフランシスコへ到着した際の入国手続き。イミグレで滞在期間を問われ、「1 week」と、あまり深く考えずに答えていた。  だが9月13日の木曜に入国後、別件が入り今日は9月22日の土曜日。  既に入国後10日が経っていた。  ホテルでフライトは変更したが、イミグレのことは頭になく、前の晩になって支店の前野から言われた。 「君は、そんなことも知らずに入国したのか、この国ではほんの3日なんて、そんな事では済まないよ――」  元々東京が嫌いで長崎の大学を選んだ弘明だけに、それでなくとも前野の使う標準語はけたくそ悪かった。 (同じ歳のくせに、俺が中途採用だと思って……)  前野という男は会った時からそうだった。入社2年目でアメリカへ出張した弘明に対して、明らかに反感を持っていた。会社は社長以下経済畑出が占めていて、田舎の倒産した造船所出の弘明に対して上から目線だった。  負けて堪るかと弘明は耐えたものの、前野の言うオーバーステイにビクつきながら空港へ来た。だが入管どころか、カウンターで足止めを食らっていた。  苛立つ弘明に、前に立つ黒人女性が鬱憤を秘めた目を向けた。だが何も言わない。ただ、でしょ――とでも言いたげに、大仰に口を歪めて首を振った。 「ロンドンへ飛べるのでしょうか?」  渡りに船の弘明は、すばやく英語で声を掛けた。  すると彼女は(なんだ喋れるのか)と言わんばかりに、それはまるで機関銃をぶっ放す様に喋り始めたのだった。 (つづく)
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