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尚也が三匹の猫を拾って帰った翌日、今日もあゆはちゃんが遊びに来るからマンションに来ないかと誘われた。
猫たちがまだマンションに居て、前のようにアレルギーの症状が出て、尚也に迷惑をかけてはいけないとは思いながらも、猫たちの様子や、私との約束のことも気になり、複雑な思いで扉を開けた。
玄関には、いつも出迎えてくれるはずのくつしたの姿はなかった。
「あーっ、まりなおねぇちゃんいらっしゃーいっ! ねぇ、きてきてっ! 今、なおにぃちゃんがしろねこしゃんにごはんつくってるのーっ」
あゆはちゃんに手を引かれるままにキッチンに向かう。コンロの前で尚也は小鍋を握っていた。
「茉里奈、いらっしゃい」
「お邪魔、します」
部屋の中にアンバー色の宝石のような瞳とくつしたの前脚を探したけれど、見つからない。代わりに、にゃあーと力強く鳴く白猫があゆはちゃんの近くで尻尾をふわりふわりと揺らしている。
猫は、1匹しか、居ない。
「……茉里奈、来てくれてありがとう。また、あゆはと遊んでくれる?」
尚也はぐつぐつと煮ている大鍋の火を弱め、ゆっくりと私を見た。私は自分を納得させるように、なるべく緩慢に頷いて、冷蔵庫のひらがな表に目をやった。
「あゆはちゃん。……白猫ちゃんの名前を考えてくれる?」
「え? くつしたしゃんはー? どこにもいないのー。さがそうよぉー」
「くつしたは、もう見えなくなっちゃったけど、新しくやって来た猫ちゃんの力になってくれるんだよ」
「えー? ちからになる、ってどういうこと?」
あゆはちゃんは不思議そうに首を傾げ、白猫をじっと見た。
「うーん、会えなくなっても、繋がってるって言えば分かるかな?」
私が答えると、うーん、とピンと来ていない様子。気を取り直し、黒マジックを握る。
「次のひらがなは『け』だな。あゆは、名前を考えて」
尚也はそう言い、猫用の皿を持った。
キッチンのまな板の上には骨と肉と、包丁。いつもの猫専用の食事の残骸。それから横のシンクには膨らんだ黒のビニール袋。口はぎゅうっと閉められているけれど、結び目から短い黒と白、焦げ茶色と、動物の毛のようなものががぴょこぴょことはみでている。
振り返って、あゆはちゃんを見る。
「ねぇ、あゆはちゃん、もう『く』は覚えたよね?」
「うん、あゆは、ねこしゃんのおなまえ、ぜんぶおぼえてるよーっ! あいすしゃん、いよかんしゃん、うめしゃん、えんぴつしゃん、おすししゃん……、ぜんぶ、あゆはがかんがえたんだもーんっ!」
「すごいぞ、あゆは。次に、猫の名前をつけてくれたら、また覚える言葉が増えるな?」
「うん、あゆは、おなまえかんがえるーっ!」
私は微笑ましく笑い合うふたりを見ながら、ひらがな表の「く」に斜線を引いた。
「今度は、茉里奈と一緒に考えてくれてもいいぞ。次期、お嫁さんになってくれる予定だからな……」
「え!? もうっ、尚也。……気が早いよぉ。まだ、私たち学生だよ? 就職もしてないのに……。あゆはちゃんもびっくりしちゃうって。……ねぇ、あゆはちゃん?」
「あゆは、なおにいちゃんも、まりなおねぇちゃんも、ねこしゃんたちも、だーいすきっ! みんないっしょがいいよっ!」
「俺は茉里奈が一番で、あゆはが二番。猫たちは三番、だから、好きなものには最後まで責任持たないとなぁ。みんな大切な俺の家族だからさ」
尚也はのろけるように笑って、鍋の中身を皿に注いだ。
どろどろになったそれは、くつしたと呼ばれていた姿からは、ほど遠い。今はもう、次の猫の血となり、肉となり、命を繋いでいく食餌だ。
「尚也は本当に愛病家だね。私との約束を守ってくれてありがとう。これで、一緒に居られるよ」
満たされるような気持ちになった私は、白猫がおそるおそる食餌を口にするのを穏やかに眺めた。
END.
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