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苦い記憶
あれは学生だった時。
アザミが人のいない空き教室に呼ばれて待っていると、遅れて来た彼女は挨拶もそこそこに告げた。
「ねぇ、アザミ。私の代わりにラブレターを書いてくれない?」
「……そういうのは自分の言葉で書かないと、意味ないんじゃない?」
突拍子のないお願いに目を見張る。穏便に断ろうと遠回しにそう言ったが、聞き分けのない子を見る目で見られた。
「アザミは字も綺麗だし、この前の詩の課題も褒められてたから、良い文章が書けるでしょ? 聞いたわよ、上級学校への進学も決まったって。
だから私の想いを代わりに形にするなんて簡単なことでしょう?
ね、親友からの一生のお願いよ」
お願いという体をとりこちらに選択権を与えているようだが、アザミに対する命令だった。
大地主の娘である彼女のお願いを断れる人間はこの村にはほぼいない。それは両親が彼女の家から土地を借り、農夫として働いているアザミもだ。彼女の機嫌を損ねれば仕事も家も失い、明日の食事にも困るようになるだろう。
厄介な頼みごとに逡巡の末、不承不承頷いたアザミに彼女は目を細めた。
「ありがとう、さすが親友ね。それで、相手は――」
声は確かに聞こえたのに、その名前を理解することを頭が拒否する。まさかここで聞くことになるとは思わず、目を見開いて固まった。
「じゃあ、明日までにお願いね」
呆然とするアザミを意地悪く笑い、彼女は去っていった。
彼女が彼の名前を告げる口の動きと声が繰り返し再生される。そんな素振りを見せたことなんて、一度もないのに。
なぜ……なぜ……と疑問だけが頭の中を回っていた。
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