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【再び、恋は終わる。20歳のあたし】
白いカーテンの隙間から、満月の姿が見える。
下着とブラウスだけを身に付け、ベッドの上に横たわっているあたしの肢体を、窓から差し込んでくる仄かな光が照らしだす。体の凹凸にそって描かれる陰影。光のあたっている箇所は、ただでさえ色素が薄めの肌を、より一層白く際立たせていた。
緊張で身を強張らせているあたしと、丸めた背中にそっと触れてくる彼。静寂が支配しているアパートの一室に響くのは、二人の息遣いの音だけだ。触ってもいい、と確認を求める声に頷くと、彼の両手が背中から回されてくる。ブラウスの裾から指先が差し込まれた瞬間、ぴくんと身体が跳ねた。
背中ごしに伝わってくる彼の体温とは対照的に、あたしの指先は、異常なほどに冷え切っている。優しく、擦るように触れてくる手のひらの感触も、自分の体じゃないみたいに遠く感じる。それなのに、心臓の音だけはやたらと耳にうるさい。あたしの方から誘ったんだししっかりしないと、彼が辛い思いをするじゃないか。声、出さなくちゃ、出さなくちゃって焦るたび、五感の全てが希薄になっていく。
でも──声なんて、どうやってだすんだろう。
じれったいな、と感じて彼の一方の手を取り誘うと、太腿に触れてくる感触に少しだけ甘い声がでた。よかった。こんな感じでいいのかも。
うん、大丈夫、これは彼の手のひらだから。
もっと……もっとあたしだけを見て。
大丈夫。少しずつ感触がもどってきた。
集中。頑張って、気持ちよくならないと。
あたしが別の人のこと考えてるって、気付かれたくないから。
そのまま目蓋を閉じて、身体ごと彼に任せきっていると、次第に熱を帯び始める頬。霧雨のなか、微かに揺れる水面のように凪いでいた心が高まり始めたそのとき、彼の指の動きが止まった。
「トオルくん?」
首だけを回して、肩越しに彼の名を呼んだ。
トオル君は答えることなくあたしの体を仰向けに変えると、顔の横に両手を着いた。光の加減だろうか。見下ろしている茶褐色の瞳は、僅かに潤んで見えた。
「ごめんなさい。俺、これ以上は出来ないっす」
「どうして……。あたし、平気だよ、ちゃんと」
そこから先の言葉は、トオル君に遮られる。
「そりゃあ俺だって、ここまでしといて止めちゃうなんて、勿体ないって思いますよ。でも……恭子さんだって、初めてなんでしょ? 相手が俺なんかじゃ、それこそ勿体ないです」
「だから、大丈夫だってば。あたし、トオル君に処女をあげたいと思ったから、誘ったんだし……。ちゃんと大丈夫だから」
口ごもり、ふいと視線を逸らすと、彼は数秒思案したのち、次の言葉を導きだした。
「そんな風に言われても、やっぱり無理なもんは無理です。じゃあ恭子さん、どうして泣いてるんですか? 誤魔化すのも強がるのも止めてください。分かるんですよ。その涙が、俺を想って流してる涙じゃないってこと。……だからやっぱり、無理ですよ……」
彼に指摘されて初めて、自分が泣いていることに気が付いた。
トオル君はあたしの潤んだ目元を指先で拭うと、ベッドから起き上がって着替えを始める。
──彼を傷つけてしまった。
酷いことをしたと頭ではわかっているのに、去ろうとしている背中を引き留める言葉が見つからない。罪悪感からただ俯いて、指先で涙を拭いながら考える。結局、あたし楠恭子は、高校生の頃からなんにも変われていないんだな、と。
彼、トオル君は、友人がセッティングした合コンの席で知り合った男の子だ。
歳はあたしの二つ下。最初の飲み会の席からあたしに気が有ったらしく、ずっと隣に座って、身の上話や悩み事を聞いてくれた。高校を卒業してから二年、ずっと人の温もりに飢えていたあたしも、知らず知らずのうちに、彼に寄り添っていた。
あたしがトイレに立つと直ぐに彼が追いかけてきて、連絡先の交換を申し出てきた。どうしようか、と暫し逡巡したのち、取り敢えず応じた。
「いい加減に、昔の男は忘れなさい」と、友人にも度々言われていたのだから。
かくして交際をスタートさせた二人は、順調にデートを重ねていった。でも心が弾んでいたのは最初の内だけで、何時しか彼と過ごす時間は、『彼のことを、そんなに好きでもない』と、再確認していく作業でしかなくなった。
二度目のデートで手を繋ぎ、三度目のデートで口づけを交わした。けれどもそこから暫くの間、二人の関係はキスから先に進まなかった。
彼が無理に迫ってくる性格じゃないのは知っていたし、知っていながら積極的に振る舞えない自分が疎ましかった。このままじゃ何も変わらないと焦ったあたしは、自分の方から動いてみた。酒の勢いを借りると一時の気の迷いに身を任せ、トオル君を自分のアパートに招きいれた。
その結果が……このザマだ。
「恭子さん」
返事はせずに、彼を見つめた。
「少しは俺のこと、好きでしたか?」
「えっと……」
好きだったよ、と言おうとして、過去形なのに気がつき口を噤んだ。
あたしの煮え切らない態度に呆れてしまったのだろうか、彼は寂しげな笑みを浮かべた。
「俺は恭子さんの、そういう正直なところが、好きでしたよ」
「ごめん」
何がごめんだ。全部あたしが悪いんじゃないのか。頭の中で呪詛の言葉が渦を巻く。
「じゃあ俺、そろそろ帰りますね。さようなら、恭子さん」
「トオル君!?」
ジャケットを羽織り手際よく荷物をまとめた彼は、こちらに顔を向けることもなく部屋を出て行く。取りあえず名前を呼んでみたあたしの声も、なんだか白々しい。
パタンという扉の閉まる音に続いて響いた、チャリンという金属質な音。下着姿のまま玄関口まで行ってみると、彼に預けていた合鍵が落ちていた。同時にあたしは認識する。そうか、また一つ恋が終わったんだなと。
今ならまだ、追いかければ間に合うかもしれない、そんな考えが一時脳裏を過るが、あたしの足は一向に動こうとしなかった。動かない理由なんて、考えなくたって分かる。あたしは結局のところ、トオル君に彼の姿を重ね合わせて、自分を慰めていたに過ぎないのだから。
──あたしに、追いかける資格なんてない。
それでも……もう涙が止まっている自分のことが、何よりも悲しくて憎らしかった。
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