ムカつくあいつ

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 ひと目見ただけでムカつきを覚えた。  黒須怜人は、いたって穏和な性格である。三十年近い人生の中で、人を殴ったことはもちろん、面と向かって悪口を浴びせかけたことすらない。そもそも他人にたいしてそこまでの憎しみを感じたことがない。  淡なのだ、とはよく言われる。なるほど確かに憎しみだけではなく、愛も喜びも悲しみも、万事感情が薄い方であるかもしれない。少なくとも感情表現を派手にするというタイプではない。人が大袈裟に笑い歓声をあげあるいはまた号泣しているのを見ると、疲れそうだなと思ってしまう。中には感情を表現することでさらに感情そのものを高ぶらせているような人もいて、そうなるともう完全に理解不能だ。なぜわざわざ自分を消耗させるようなループに入り込んでしまうのか。そもそもどうしてそこまで騒ぎ立てなければならないのだろう。  結局は自分の中にそこまでの熱情がわいたことがないのだと思う。特に不都合があるわけでもなく、自分ではそれを欠損だと思ってはいない。日々の喜びもあるし、人を愛したことも、別れを恨んだこともある。ただ、恋人から何か物足りないようなことを言われ、それが離別に繋がったことが一度ならずあり、そんなときばかりは、自分には人として重大なものが欠けているのではないか、としばし悩むこともあった。  その怜人が、今はひどい苛立ちを感じている。目の前の老人に。  バス停に並ぶその老人を初めて見たときの感情を、どう説明し形容したらいいのか、怜人は適当な言葉を思い付くことができなかった。  取り立ててこれといったところのない、ごく普通の老人である。少し乱れた白髪と、皺に覆われた顔の中のギョロリとした目。髭はなく、萎れていながら存在感のある唇はだらしなく半開きになって震えている。濃茶色のブルゾンを羽織った体躯。腰が曲がって全体が縮こまったような姿から、もとの体格を推し量ることは難しい。グレーのよれよれとしたスラックス。杖をつき、危うげにステップを上るその姿は、年寄りにありがちな身だしなみの乱れと、衰え始めた生命の発する独特の臭気を放っていたとはいえ、決して過度に不潔なわけではなく、いささかの憐れを誘い、人によっては避けることすらありうるかもしれないが、決して激しい苛立ちや憎悪を抱かせるようなものではなかった。  だが、怜人は感じたのだ。何かがあったわけではない。ぶつかった訳でも、不愉快な視線を向けられたわけでもない。老人が自分に気がついていたかどうかすら定かではない。にもかかわらず、怜人は一目その男をみた瞬間、まず全身が震えるような、恐怖とも生理的嫌悪ともつかぬ感覚に襲われ、続いて激しい胃のムカつきと、狂おしいほどの憎悪を、自らのうちに感じたのだ。  そんなことがあると聞いたことはあった。通りの反対側を歩いてるのをみただけで殴りにいきたくなるような相手と、人は稀に出会うことがある、と。  だが、相手は老人だ。どうみても自分より弱く、老い先短い、つまりは憎むまでもなく遠からず天に召されてしまいそうな、哀れな弱者だ。倫理に照らして、そんな感情を向けることが正しいとは思えない。内心のことは仕方がないにせよ、多少の感情など、圧倒的な優越感のうちに解消できても良さそうなものだ。  ましてや万事感情が薄いはずの自分であるのに。いったい何がここまでの思いをかきたてるのか。  一日目、怜人は必死に自分の中の感情を鎮めようとした。己を説得し、気持ちを落ち着けようとした。  二日目、またその老人が並んでいるのをみたときは、じっくり観察してみた。一体老人の何が、自分をこんな状態にさせるのか、その謎を解き明かそうとして。  三日目には、老人を無視するように努めた。  しかし、考えれば考えるほど、観察すれば観察するほど、見まいとすれば見まいとするほどに、怜人のうちなる暗い情熱は行き場を失い荒れ狂い高ぶっていくようであった。  そんなことを繰り返しながら迎えた週末、出勤と同時に老人からも解放され、怜人は久しぶりに安らぎを覚えた。自らの感情と向き合うことで、自分が言いようもなく疲弊していることを自覚せずにはいられなかった。それすらもあの老人のせいなのだと思うと、せっかく得た魂の安らぎはたちどころに薄れ始め、怜人は慌てて気をそらした。  日曜の夜、風呂の天井を見上げながら、怜人は決心した。明日から、バスを一本遅らそう。一本早いバスは四十分も前であり、それだけの睡眠時間を失うのは避けたい。後にするなら、会社につくのが少々遅くなりはするだろうが、遅刻には至らないだろうし、そのぶん忙しくなるくらいのことなら、十分許容できる。  月曜日、バス停に向かう怜人の足は軽やかだった。ついにあの、自分の中の得体の知れない闇から解放されるのだと思うと、頭上をおおう分厚い雲すら輝かしく感じられた。  角を曲がって、近道であるひとけのない路地に入ろうとした、そのとき。  目の前に、その老人があらわれた。 「ひっ」  怜人は思わず声をあげた。自分の中の暗い炎を見透かし、そこから逃れようとする自分を嘲笑するために、何か超自然的な方法で、老人が忽然とそこにあらわれたような、迷信的な恐怖を感じた。そして激しい怒り。自分を脅かしたものへの反発を契機に、この一週間の間溜まりに溜まり続けていた憎悪が、一斉にふきだす。  思わずあげた拳が老人の顎に当たり、不明瞭な声と共にごっ、という鈍い音をたてた。そうなるともう止まらなかった。怜人は老人の顔に今度は明確な害意をもって殴りかかり、倒れる前に横から拳を叩きつけ、さらに腹に蹴りを入れた。  こいつが。皆こいつが悪いのだ。  築きあげてきた心の平静を奪い、かぶり続けてきた仮面の脆弱さを見透かし、隠してきた暴力への衝動を露にしたのは、すべてこいつだ。こいつのせいなのだ。  俺じゃない。俺は悪くない。こいつさえ、現れなければ、すべてはうまくいっていたのだ。  俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。そう頭の中で繰り返しながら、怜人は老人を踏みつけ、馬乗りになっては殴り続けた。殴った回数のぶん、自分の正当性が証明されるのだ、とでも言うように。  やがて後ろから誰かの悲鳴が聞こえて我に帰ったとき、老人は血まみれのぼろ雑巾のように怜人の下に横たわっていた。  殺してしまったのか。恐る恐る呼吸を確かめようとする怜人の耳に、老人の末期の声が届く。  血の気が引いた。  「う……うわあ!」  立ち上がり、逃げ出そうとした怜人を、激しいめまいが襲う。  そうか。そういうことだったのか。  自分が老人を見て一瞬のうちに感じた嫌悪感。強すぎる苛立ちと憎しみ。その理由が、今、初めて明らかになっていた。  突然の理解は、怜人に救いをもたらさなかった。めまいが収まり、自分が見知らぬ場所にたっていることに気がついても、意外には思わなかった。木造の古びた家がまばらに立つ未舗装の路上で、風に飛ばされてきた新聞を拾い上げる。そこには六十年前の日付があった。  あの時、死を目前にした震える声で、老人は、こう言ったのだ。 「俺は、お前だ」と。
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