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【商用・非商用利用OK】タイトル:やがて忍びの凪紗(なぎさ) 作者:志稲 祐
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【作品名】
やがて忍びの凪紗(なぎさ)
【作者名】
志稲 祐(しいな ゆう)
【コミュニティ名】
NinjaDAO
(以下、小説本文)
やがて忍びの凪紗(なぎさ)
灰色の雲が天を覆う下、小さな崖があった。崖の頂には太くうねる松が生えている。
崖の下に一人の女子が立っていた。名を凪紗と言った。齢は十六か十七といったところ。やや日に焼けた顔で、青藍の瞳が引き立っている。
凪紗はしばらく崖を仰いでいたが、手足を掛ける場所の見当をつけると、目にも止まらぬ身ごなしで以って瞬く間に頂へと登った。
「…………」
乾いた草の茂る松の根元に息一つ乱さず身を伏せ、凪紗は前方の様子を窺う。
草の絵柄が施された色打掛が、凪紗の動きを昼間にも拘わらず見事に隠している。だが色打掛の丈は通常よりも短く、太ももの中ほどから下は引き締まった素足が覗き、黒い皮の脛当て、足には青藍の足袋と枯草色の草履を履いている。
(――あそこか)
前方に広がる雑木林の奥に、小さな庵が見えた。凪紗が向かう場所である。
ふと視線を手前に移すと、草に這わせるようにして糸が張られていた。見る者が見なければ見極めるのが困難な、巧妙な罠だ。
凪紗は薄く笑うと中腰になり、その糸をつま先で踏みつけた。
すると、前方の雑木林から無数の矢が飛び出してきた。
凪紗は素早く身を伏せ、あるいは側中を切り、美しく舞うような動きで自在に身体を操り、矢の横雨を躱した。
凪紗は中空から大きく開脚して着地。片手を地について三点で身体を支え、再び雑木林を見た。そのまま腕を曲げ上体を伏せ、腰に回した右手でクナイを掴む。
目を細め、狙いをつけた一点目掛けクナイを投げ放つ。クナイが雑木林に飛び込んだ途端、無数の竹槍が地面から突き出した。
(これで全部)
凪紗は何事も無かったかの如くすっくと立ちあがり、雑木林を飛ぶように駆け抜け庵の戸を叩いた。
「…………」
返事は無い。凪紗は構わず戸を引いた。
雑木林に日を遮られた庵の中は薄暗かったが、凪紗はその薄闇の奥に座禅を組む人影を見出した。
「――凪紗(なぎさ)か?」
戸に背を向けて座る人影から低く響く声がした。
「お師匠、お久しぶりです。瞑想の最中でございましたか?」
冬の微風の如く澄んだ声で、凪紗は言った。
「よい。入れ、寒かろう」
そう言われ、凪紗は音もなく入り戸をそっと閉めた。このとき凪紗の目は早くも闇に慣れていたが、
「灯りを入れ申します」
燭台を見出し、その傍に置かれた火打石を手に取った。
「要らぬこと。わしの目に夜昼はない。われは、山籠もりの一年で目が鈍ったか?」
「わたしには要ります。お師匠の目には敵いませぬ」
「はは、わしを超えて巣立つ娘がなにを言う。わしが文に認めたものをよく見たいのであろう?」
「お見通しですね」
凪紗が蝋燭に火を灯すと板壁の隙間から差し込む明かりと相まって部屋全体が明るくなった。
東に面して厨子があり、中央には囲炉裏がある。
凪紗が師匠と呼んだ男――金鬼は囲炉裏を挟んだ向こう側で、凪紗に背を向け座禅を組んでいた。濃紺の忍び装束で、背には雨よけの蓑代衣を纏っている。
金鬼が向く先にはもう一枚の引き戸がある。その奥には、伝説の鍛冶師と謳われる彼が、己の技を振るう工房が眠っていることを凪紗は知っていた。
「松から軒先に至るまでの仕掛けは解いたか?」
「はい。見事なものでございました。あれだけの仕掛けであれば、相手が鬼とて、ただでは済みますまい」
「ふむ。では体術の習得は成たものとする」
言って、金鬼は立ち上がり振り向いた。その右手に一振りの小刀を持ち、顔には深紅の色をした鬼面を被っている。
「これを取れ」
金鬼が放って寄越した小刀を、凪紗は両手で受け取った。
「お前が一人前の忍びとなる最後の試練は、その小刀でわしと戦い、わしに一太刀浴びせることじゃ」
凪紗が小刀の鯉口を切り、ゆっくり抜いていくと、黒い鞘に包まれたそれが滑らかに走り、銀に煌めく一尺三寸の刃が露わになった。
忍びを目指す凪紗は、齢で六を数えたときに里を出て、金鬼の下で九年間の修行に励んだ。その後、金鬼の庵からおよそ五里(約二十キロ)先にある山に一年篭り、更なる心身の鍛錬に励んでいた折に、金鬼が放った使い魔の鴉から一通の文を受け取った。そこに書き記されていたのが、此度の最後の試練と、小刀のことであった。
「わしがお前のために鍛えた刀じゃ。名はお前が決めるがよい」
「それが叶うのは、わたしがお師匠と戦って死ななければの話」
「おう。此度のわしは、お前を殺す気で掛かる。女子とて容赦などせぬ。命が惜しゅうなれば、いつでも背を向け逃げるがよい。次の瞬間、胸の谷間からわしの刃が突き出すであろうが」
金鬼の慈悲なき物言いは、『忍びを志す者、命を賭して臨まねばこれ叶わず』という、伊賀忍者の教えである。
「逃げも隠れも致しませぬ」
小刀を一度鞘に戻しながら、凪紗は師匠の鬼面を見つめて言った。
「外で待つ。用意をして出てこい」
金鬼は言って、すでに履いていた草履を音もなく踏み出し、凪紗の横を通って出ていった。
凪紗は厨子を開け、中にある忍び装束を見た。この忍び装束も、金鬼が凪紗のために拵えた
ものであった。
凪紗は身に纏っていた衣服を脱いだ。十年に渡る鍛錬で見事に鍛え抜かれた肉体は五里の距離を休みなく容易に走破する体力を備え、女子らしい華奢な体格を保ちながらも随所にしっかりとした筋肉がつき、その身体が繰り出す体術は並みの男であれば容易くねじ伏せられるほどに仕上げられていた。そして身体の至る所に残る打ち身や切り傷の跡が、彼女が山籠もりで行った壮絶な鍛錬を物語る。
「……すべては、雑賀の名に恥じぬ忍びになるため」
硬くなった手のひらをぐっと握りしめ、凪紗は覚悟を決めて忍び装束を身に着けていく。
金鬼のものと同じく、濃紺の色を基調にした上衣は、筒袖が手甲で留めてある。袴は太ももから足首にかけて幅が狭まる形状をして、銀に煌めく金属製の脚絆は袴の上から脛にあてがうものだ。音がせぬよう、底に綿を厚く入れた黒い足袋を履き、これも目立たぬよう黒に着色されたわらじを履いた。
そして最後に、脚絆と同じ金属製の額当てを、うなじの辺りで切り揃えられた白銀の髪の上から巻き付け、ぐっと縛った。
次いで凪紗は雑賀の里で両親から受け継いだ秘伝の巻物を、脱ぎ捨てた打掛の物入れから取り出して、上衣の懐に入れた。
凪紗がこの十年間肌身離さず持っていた巻物は両親の形見であり、雑賀忍術を扱う際に必要なものである。
そして伊賀の金鬼から授けられた小刀を背負い、戸を引き開けて外へ出た。
眼前数丈(数メートル)先に、幅広で抜き身の大太刀を担いだ金鬼が立っていた。
普段の金鬼は、武器として牛刀程度の小振りなものを持つ。だが此度のように重要な戦いにおいては、己が鍛えた刀の中でも選りすぐりの業物を携えるのである。
「思えば、伊賀者(いがもの)のわしが雑賀者のお前を見た理由を、まだ話していなかったな」
「わたしの願いは、雑賀には無い忍術をお師匠から学び、より強き忍びになること。理由は重要ではございませぬ」
「ほう、然様か? 聞かずともよいと申すのか? 本当に?」
「……やっぱり聞きとうございます」
「はは、顔に出るところは今後正さねばならぬぞ、凪紗よ。熟練の忍びはお前の弱点を衝いてくる。鬼も同じこと」
鬼面の奥で、金鬼は小さく笑う。
「――理由は、ただの気まぐれじゃ。元々、伊賀と雑賀は友好的ではあるが、弟子を取り合うほどの縁も義理もないからのう」
気まぐれだと金鬼は言うが、凪紗はそうは思わなかった。
凪紗は齢六つを数えた頃に、忍びの両親を鬼に殺された。そのとき偶然にも、鍛えた刀の商談で雑賀を訪れていた金鬼がその鬼を討ち、身寄りがなかった凪紗を弟子として迎える形で引き取った経緯がある。
凪紗はそこに、金鬼の人情を見ていた。
その人情は、この十年の間にも、幾度か垣間見ることができた。近い頃でいえば、凪紗は自分が一年の山籠もりを行っている最中に時折、金鬼が浪人を装って山に入り、様子を見に来ていることに気付いていた。
伝説の鍛冶師として名を馳せ、仕事において一切の妥協を許さないと言われる金鬼が、情を注いだ凪紗をただの気まぐれで扱うわけがないのである。
そんな彼が、気まぐれと言ったのは何故か。
これから命を賭した立ち合いを行うのだ。双方に余計な感情は不要。故に金鬼は斯様(かよう)な理由を伝えたのであろう。
そう言うことで、己の中にある情を拭い去るために。
(……たとえ気まぐれであったとしても、わたしはお師匠を尊敬し、お慕いしております。今までも、これからも)
凪紗も口から出掛かった言葉を胸の中で念じ、意識から消し去った。目を閉じて息を吸い、細く長く吐き出す。そうして再び開かれた彼女の目は、ただ無心で戦う忍びのそれへと変わっていた。
「わかりました、お師匠」
「おう。よい目つきになったな、凪紗」
「参ります」
「殺す気で来い。でなければ、死ぬぞ」
両者の呼吸が変わり、同時に地を蹴った。
彼我の距離を一瞬で縮める【縮地の術】は凪紗が得意とする忍術の一つ。
それを用いて一気に攻めかかる彼女に微塵も動じることなく打ち出された金鬼の掌底が、突進の勢いに乗せて凪紗の背から鞘走り始めていた小刀の柄に激突。
縮地の術に抜刀術を掛け合わせた技を見事に封じられた凪紗は、背負った小刀の刃が掌底で押し戻されるや、逆にその衝撃を活かして身を捻る。
そして遠心力を加えた強烈な蹴り技を金鬼の頭部目掛け繰り出す。
手甲を嵌めた金鬼の右腕に凪紗の左脚が弾かれた。
凪紗の身体はこのとき横に寝た状態で中空にあった。彼女は弾かれた勢いを回転運動に転じ、更に身を捻って一回転し、今度は左脚の足袋底で金鬼の鬼面を蹴った。
だが、蹴ったのは金鬼の鬼面ではなく、その前に構えられた大太刀の刀身だった。
凪紗が放った蹴りの衝撃で、一間(約一八〇センチ)はある金鬼の巨体が草を蹴散らしながら地面を滑る。
凪紗は手を緩めずに突撃。金鬼の大太刀が及ばぬ懐に潜り込み、両の拳を彼の腹部目掛け連打。そこへ頭上から振り下ろされた大太刀の柄を、身をすとんと落として回避。跳ねて避けられることを見越した足払いから間に髪入れず、金鬼の下あごを狙って鋭い蹴り上げを見舞う。
このとんぼ返りと呼ばれる、相手の顔に対し後方宙返りしつつ下から上へ放つ蹴り技は、捉えれば確実に舌を噛み切らせる、または顎を砕くことができる必殺の蹴りである。
だが金鬼は凪紗の敏速な格闘術をすべて見切り、受け切ってみせた。
一度凪紗の足払いを避けるためにその場で飛んだものの、金鬼は今の立ち合いにおいて一歩も動いていない。
一度距離を取り、再び突進から回転運動に乗せた蹴りを放ち吹き飛ばすことを考える凪紗だが、同じ攻撃が通じるほど甘い相手ではない。
腕力では叶わぬ敵と刃を交え、鍔迫り合いになれば押し切られるのは凪紗の方だ。
しかし徒手格闘で仕留め切れぬ以上、刀を使わねばなるまい。
(どうにかして隙を作り、大太刀とやり合うことなく刃をぶつければよいのだ!)
凪紗は戦闘方針を定めるが、この数瞬の思考が彼女に僅かな隙を生じさせた。次に叩こうと狙いを定める所作が単調なものになってしまったのだ。
金鬼はその隙を見逃さず、凪紗の動きの先を読み、逆手に掴み直した大太刀を振るってきた。
凪紗はこれに堪らず、急いで後方へ飛んだ。彼女の喉笛――その一分(約三ミリ)先を大太刀の刃先が通過。
二撃目が振るわれる前に、凪紗は連続で後転して距離を開ける。そうして背後の木に駆け上ると、懐から巻物を取り出した。
「ほう、来るか! 雑賀忍術!」
金鬼はその鬼面の中で目を見開いた。
凪紗は胸の前で、片手の人差し指と中指を立て合わせた【刀印】を構え、勢いよく巻物を開いた。
巻物が素早く展開して宙に浮き広がった瞬間、凪紗は巻物に記された術式を唱えた。
「雑賀投影術式第八の巻――影分身!」
すると、見よ!
木の枝に足を掛けていた凪紗の隣にもう一人、更にもう一人、木の下に一人、更に一人と、計十人の凪紗の分身が現れた。
「影のある場所であれば猛威を振るう影分身! 久方ぶりに見たぞ!」
金鬼は歓喜の声を上げ、大太刀を構えて突っ込んで来た。
木の下にいた五人の凪紗が束になって掛かる。
それを金鬼は嵐の如き剣捌きで瞬く間に斬り飛ばし、斬られた凪紗たちは影となって霧散。
金鬼の気合一閃。大太刀が凪紗の登った木を藁の如く断ち切った。
木の上に立つ凪紗たちは落下を活かして金鬼の頭上から襲い掛かる。
だが金鬼は既に、どの凪紗が本物か目星を付けていた。長年の戦闘経験で研ぎ澄まされた観察眼の成せる技だ。
「甘いぞ、凪紗!」
己の懐へ迫る凪紗には目もくれず、金鬼は凪紗目掛けて大太刀を繰り出した。
「ぐっ」
凪紗は苦痛の呻きを漏らし、――影と消えた。
「なに!」
金鬼はここで初めて驚愕の声を上げた。まさか己が、本物を見誤るとは!
「――覇(は)!」
金鬼の懐に潜り込んだ本物含む四人の凪紗が一斉に、金鬼の胴部へ打撃の霰を喰らわせた。
あまりの猛攻に、金鬼は堪らず大太刀を取り落とし――、
無数の釘となって、ぼろぼろと崩れ去った。
「えっ!」
凪紗は油断していた。勝てたと思っていた。
「……分身の術は、影だけにあらず」
どこからともなく、金鬼の声が響く。
「お前には初めて見せるな。伊賀に伝わる金遁忍術――釘分身の術だ」
(まさか、わたしが着替えている間に、既に分身を立たせていたのか!)
してやられたと、凪紗は下唇を噛んだ。そんな彼女の頬が僅かに膨れ上がる。
「さて、どうする凪紗。降参しとうなったか?」
「わたしの十年は、こんなことでは終わりませぬ!」
悔しさと怒りを滲ませて、凪紗は叫んだ。
「その意気やよし。ではわしの奥義を見せてやろう。わしが背負う蓑代衣はこのためのもの!」
と、金鬼の低い笑い声が雑木林全体を満たし始めた。
見れば、近くにあったはずの庵が跡形もなく消え失せ、似たような木々の景色が凪紗をぐるりと囲み、どこまでも続いている。
(な、なんだ? ――これは!)
目眩がし始めた。次いで方向感覚が失われ、肩に重荷が圧し掛かる感覚に襲われて、まともに立っていられなくなる。
影分身たちも同じ状態に陥り、その全員が消え失せてしまう。
凪紗は悟る。
これは幻。――幻術の類だと。
「金遁――反響幻覚界の術!」
金鬼の声がより一層強く響いた。
胸に衝撃。がくりと膝が折れ、凪紗はその場に頽れる。
(まずい! このままではこちらが取られる!)
焦る凪紗だが、ここで彼女の脳裏に、幼き頃の記憶が蘇ってきた。
それは彼女の心の中に、僅かな間ながらもしっかりと残る、両親との思い出であった。
(――わたしは)
ぐっと歯を食い縛る。
(こんなところで終わらない!)
腕に渾身の力を込めて動かし、小刀を拾い上げる。
(わたしは、鬼を倒し、父と母の仇を討つ!)
強烈な目眩と重圧に抗い、凪紗は抜き放った小刀を己の左太ももに突き刺した。
「――っ!」
凪紗は想像以上の激痛で上げそうになる悲鳴を堪え、細く長く息を吐き出す。
そして、小さくこう唱えた。
「悪魔降伏
怨敵退散
七難連滅
七復連生秘
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
「――はぁあ!」
そして、指二本を刀に見立て切り払うがごとく九字を切る、精神統一の術を繰り出した。
金鬼から授かった術である。
凪紗は十年の修行を経て、伊賀と雑賀、二つの忍術を習得していたのだ。
次の瞬間、自分を襲っていたすべての症状が消え、平常な感覚が戻ってきた。
凪紗が背後に立つ金鬼の気配を察するのに、瞬くほどの間も掛からなかった。
凪紗は左太ももから抜き出した小刀を振り向きざまに一閃。
見事、金鬼の脇腹を切り裂いた。
「うぉおおお!」
金鬼は斬られた腹を抑え、大太刀を振りかぶったまま数歩後ずさり、木にもたれ掛かった。
「――っ! お師匠!」
小刀を取り落とし、凪紗は泣き出しそうな声を上げて金鬼に駆け寄る。
「案ずるな。わしは斬られ慣れておる。刃が身体を切り裂く瞬間の身ごなしも心得ておるのじゃ。傷は浅い」
と、金鬼は大きな手を凪紗の頭にのせた。
「それより、お前の足の傷を見せぬか。無茶をしおって」
「平気です。肉を少し刺しただけですから」
「たわけ。早う手当をするぞ」
金鬼に促された凪紗は彼の手を借り、共に庵へと戻った。
そうして囲炉裏に火を入れ、お互い、己の傷を縫い止めたときだ。
「わしはな、今まで長い間、お前にこの言葉を言うときを待ち望んでおった。 ――お前は一人前の忍びじゃよ、凪紗」
と、金鬼が言った。
「本当ですか!」
ようやく叶った念願に、凪紗は目を輝かせた。
「おう、その小刀に名をつけるがよい。愛着が沸くぞ」
「やった!」
凪紗は小刀を胸に抱きかかえ、喜びを噛み締めた。
「ところで凪紗。お前はわしが鍛冶師として飯を食うておるのを考慮して、腕ではなく腹を狙ったのか?」
「いえ。そこまでの余裕はまだありません」
「まだ、か。――末恐ろしい忍びめ!」
金鬼は豪快に笑い、
「――して、これからどうする? 鬼退治に出向くのか?」
と、真剣な眼差しを向けてきた。
「……はい。それが、わたしが生きる理由ですから」
少しの間をおいて、凪紗は金鬼の鬼面を見つめ頷いた。
かつて凪紗が暮らした雑賀の里を襲った鬼は複数おり、大半は金鬼の手によって討たれたものの、その残党が今も世の何処かをのさばっているのである。
「然様か……」
そうつぶやく金鬼は、どこか寂し気な様子で視線を囲炉裏へと移す。
「お前は一人前になったが、経験はまだまだ足りぬ。親の復讐心故に、己の理性を見失うことだけはするな?」
その言葉は凪紗に重く響いた。
「――はい、お師匠」
翌朝、凪紗は金鬼が寝息を立てている間に別れの文を認め、そっと庵を後にした。
これから向かうは、北の地にあると言われる、【地獄穴】である。
そこに入った者は、鬼たちが住まう別の世へたどり着くのだという。
「鬼を討つ。それがわたしの生きる道……」
凪紗は決意を胸に、凛とした眼差しで歩を進めた。
『お師匠。わたしはどこへ行こうと、あなたをお慕い申しております。お身体を大事になさってください。さようなら。頂いた刀の名前は、金鬼と名付けました』
寝息を止めた金鬼は静かに目を開け、凪紗が残していった文を読むと、火打石を手に取り、彼女が去った戸口へ向かって、厄除けを願う切り火を施した。
終幕
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