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最低最悪の出会い
うんざりだった。何もかもが。
私には四人の弟と三人の妹がいる。現在、母は九人目を妊娠中だ。弟や妹の学費のために私は大学へ行くことを許されず、自立することも許されず、働いた金は『今まで育ててやった恩返しをしろ』と言ってほとんど持っていかれる。家にいるときはいつも弟と妹の面倒を見ている。母は『妊娠しているから安静にしないといけない』と言って家事を何もしないので、全て私が行っている。料理、洗濯、掃除、弟と妹の勉強を見て、食事を摂らせ、寝かしつける。物心ついた頃からずっとこうだった。母は妊娠していない期間の方が短いのではないだろうか。私は、弟も妹もちっとも可愛いと思っていない。べちゃべちゃと食事をし、涎と汗臭い。うっすらと糞尿のにおいもする。
『学習性無力感』。
長期間に渡り虐げられると、反抗する気力どころか、思考すらできなくなる。私は『それ』だった。
父はよく癇癪を起して家族を殴った。一番殴られたのは私。家の壁は穴だらけで、家具もぼろぼろだ。学がなく向上心のない父は一応定職には就いているものの、稼ぎは良くない。いや、悪いと断言していいだろう。酒も煙草も博打もするし、浮気だって母公認でしている。私はもう、わけがわからなかった。
弟や妹の走り回る音。甲高い叫び声。父のげっぷ。母の大きな欠伸。
私は常に酷い頭痛に苛まれていた。こいつらは、真の髄から腐っている。
だから、仕方がなかったのだ。
父に近所の公園に呼び出され、『お前はもう大人なんだから』と言って犯されかけた。
私は、私は、どうして。私でなくなった。
無抵抗を装い、隙を見て父の目を指で突いた。痛みで仰け反った父を殴って、縊り殺した。
私は、『こいつら』とは違う。理性の有る人間だ。理性の有る人間でならなければならなかった。
だって、そうしないと、私は『こいつら』と同類になってしまうから。
「あらら、殺しちゃったの?」
吃驚して振り返ると、すらりとした男が立っていた。咥えていた煙草を指で挟み、すぅと煙を吐く。
「すっきりした?」
どうしよう。見られた。逃げなきゃ。走らなきゃ。証拠、殺人、私は悪くない。正当防衛。捕まりたくない。刑務所は嫌だ。ニュースに私の名前が載る。やだ。嫌だ。早く、早く、証拠隠滅、いや、この人も殺して、
「やめときなよ」
男は煙草を足元に落とし、踏みにじって火を消した。
「あんたに俺は殺せない」
私の思考を見透かしたように、男は言った。
「紹介が遅れたね。俺の名前は京極。京極蓮だ。あなたの、」
白い肌、薄い唇、筋の通った鼻、涼しい目元、細く長い眉。美しい男は、にこりと笑って言った。
「ストーカーです」
情報量に混乱して硬直する私に近付き、男は唇が触れ合いそうなくらいに私の顔を覗き込む。その眼は月のように弧を描いていた。
「あんたの名前は柊美樹。洒落た名前だね。年は二十二。勤め先は朝日紙工の工場作業員。高校は原松高校。この辺りじゃ一番良い高校だけど、大学は両親に阻止されて行けなかったんだね。中学は高峰第五中学校、小学校は高峰西小学校。学業では優秀な成績を収めている。その前は高峰幼稚園のぞう組とりす組。誕生日は十一月八日の蠍座。干支は鳥。血液型はB型。好物は甘い物だけど、可哀想に、安い氷砂糖で欲求を満たしてるね。嫌いな物は餡子。唯一親戚付き合いがあった母方の祖母が、生前、あんたがうんざりするほど食べさせていたから。そうでしょ?」
男、京極は私の首根っこを掴む。
「あんたの家族の情報も言ってみせようか? それとも、あんたが昨日、何を食べたか当ててみせようか?」
「ご・・・ごめんなさい・・・」
ぼろぼろと涙が零れる。京極は僅かに顔を顰めた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
「何を謝ってるの?」
「私・・・私・・・。産まれてきて、ごめんなさい・・・」
京極は苦笑し、いきなり私を抱きしめた。紺色のシャツ一枚を隔てて、厚い胸板から心臓の音が伝わる。京極は、まったく動揺していなかった。
「可哀想に。あんたは悪くないよ。今まで、よく頑張ったね」
髪を撫でられ、私は震える。
「私・・・。私は悪くない・・・。だって・・・。だって・・・。父親なのに、『大人なんだから』って言って、服を脱いだらしゃぶれって言われて、意味、意味わかんないっ・・・!」
「うん」
「『嫌だ』って言ったら、押し倒されて、服を、乱暴に、脱がそうと・・・。だから、だから私・・・。私は悪くないっ・・・!」
「さっきから言ってるでしょ。あんたは悪くないよ」
京極は私の後ろ髪を掴み、やんわりと顔をあげさせる。
「で? どうするの? あんたは悪くないのに自首する? それとも、俺と逃げるかい?」
「・・・でも、あなた、私の、す、ストーカーって」
「安心しなよ。良い子にしてれば酷いことはしないから。だって俺は、あんたを愛してるからね」
薄く笑ったその顔に、不思議と嫌悪感は感じなかった。こんな状況だから感覚が麻痺しているのだろうか。
「に、逃げて、どうするの?」
「一緒に暮らそう。俺はずっと、この機会を待ってたんだ。あんたの弱味を握れる機会をね」
その発言に、私はギョッとする。
「公園の外に俺の車が停めてある。俺の家に行くか、警察に行くかはあんた次第」
「・・・け、警察には、行きたくない」
「その言い方じゃ駄目だな」
「・・・ストーカーの言うことなんて信じられるか!」
私が声を張り詰めると、京極は目を見開いて驚いた後、心底楽しそうに笑った。
「違いないや」
「い、いっそ突き出せ! 警察に!」
「あれ見て」
「え?」
京極はさっき捨てた煙草を指差す。
「ストーカーの俺はあんたを連れ去ろうとして、邪魔した父親を殺した。そしてあんたは行方不明に。そういう筋書きでもいいわけ。わかる?」
私は、自暴自棄になった。もう、どうにでもなれ。
「ほら、もうすぐ誰か来るよ。どうする?」
「・・・あなたの、家に、行きます」
京極は微笑んだ。私達は公園を出て、京極の車に乗り込む。
「疲れてるでしょ。寝てもいいよ」
そう言葉にされると、意識しないようにしていた疲れがどっと出て、助手席に座り込んだ私はとろとろと眠くなる。京極が車を走らせ、幾つ目かの赤信号で私の意識は途切れかけていた。
「おやすみ」
優しい声。ちゅっと軽い音を立てて、京極が私の頬に口付ける。
もーわけわかんねえ。
私は意識を手放した。
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