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「あの日あの人と一緒になってたら」なんて、大人になってから考えるの。
* * *
「俺、東京に行こうと思うんだ」
高校二年生の冬、学校からの帰り道。踏み固められた雪の道を滑らないように気を付けながら二人並んで歩いていると、彼は突然私に言った。
旅行なんかの話ではないことくらい、私にもわかる。卒業後の進路のことだ。
私の心がもしガラス玉だったのなら、今きっと、ぴしっと亀裂が入った。
彼は人気者で、物を貸し借りしただけでも、周りの女の子たちの間では噂になるような存在だ。
知り合ったきっかけは、たまたま高校の入学式の朝早く、最寄り駅で出会ったことだった。その制服、同じ学校だよね、ちょっと早すぎたかなと笑いながら学校まで一緒に歩いた。それ以来すれ違うと向こうから気さくに声をかけてくれるようになり、今に至る。
ただ、それだけだ。私がみんなよりリードしてるのは、それだけ。
「へえ、東京の大学?」
平然を装って聞いた。表情も変えず、声もうわずっていない、完璧だ。女優になれるかもしれない。
「そう。将来、映画を作りたくて。挑戦してみたいなと思ってさ」
彼は映画が好きだった。私たちが生まれてもいない頃の作品にも詳しいし、かと思えば、何々監督の新作が面白いだとか、最近の映画の話もする。休日にたまに遊ぶときも必ず行き先は映画だった。私は映画にはあまり詳しくなかったが、彼が楽しそうに語る話を聞くのが好きだった。
「色々考えたけど、挑戦するならやっぱり選択肢が広がる場所の方がいいのかなと思って……。この町も好きだから、名残惜しいんだけどね」
「いいじゃん、応援するよ」
ああ、なんて空っぽな言葉を言ってしまったのだろう。
なんとなく、そんな予感はしていた。最近、映画の話と共に、東京にある学校の話もちらほら出てきていたから。
彼が夢を追う姿は、夢を持たない私には、とてもきらきらして見えた。叶うか叶わないかではなくて、何か一つの夢を目指して進む姿こそが輝いていた。だから止めたくはなかった。
でも、もし東京の大学に落ちたら、このままこっちにいてくれるんじゃないか? なんて、彼のためにならないことを考えてしまう自分が見苦しくて。
恋って、自分の嫌なところが見えて嫌だ。
私が美人だったなら、才能や、努力する力や勇気があったなら、「じゃあ私は女優になってあなたの映画に出るわ」なんて素敵なことが言えたのに。私はただの、夢も才能もない、好きな人の夢を心から応援することもできない、平凡で性格の悪い女子高校生だ。
「合格した!」
彼からその連絡を受けたときは、余命を告げられたような気持ちだった。ああ、春から私たちは、離れ離れなんだ。あと一か月。亀裂の入っていたガラス玉がバリンと音を立てて砕けた。
(付き合ってもいないのに、なんで私には報告するの? 勘違いしてもいいの?)
そんなことを思いながら、「すごいじゃん! おめでとう! さすがだね」と返事をした。文字のやりとりは顔が見えないから良い。今きっと私は、梅干しを十個くらい口に入れたように口をシワシワさせて、眉毛はしょぼしょぼに下がって、とても不細工だ。
彼を追って東京へ行くほどの勇気が私にあったらよかったのに。あなたのためならどこへでも行く、なんて、言えたらよかったのに。
でも、もし東京まで追いかけたのに、私が選ばれなかったらと思うと怖かった。「私が彼に選ばれなかったのは、東京にいなかったから」って、言い訳をしたかった。
そして、卒業式のあの日。卒業証書の入った筒を握りしめて、「好き」って言葉を、飲み込んだ。
別れ際、また女優のように笑顔を作って、「ばいばい」と言った。
* * *
あれから約七年。二十代も半ばだ。大学を卒業し社会人になって数年、やっと仕事にも慣れてきた。休日には友達と遊んだり、習い事も始めたりして、日々充実している。
彼は、東京で彼女を作っていた。大学のサークルで知り合ったのだという。どんな子か見せてよなんて言って、写真を送ってもらった。飲食店の二人席で正面から撮ったような写真だ。彼が撮ったのだろう。大きい目は少し吊り目で、鼻はちょんと鉛筆の先っぽで点を描いたように小さく、唇は上品に薄くぷるぷるとしていた。私よりずっとかわいい、お似合いだ。憎む気持ちは生まれなかった。完敗です、と思った。
でも私は、彼の言葉に縛られていた。
大学生になって、ばらばらの場所で学生生活を過ごすようになったある日。彼が「もう時効だから言うけど」と前置きをした上で、「卒業の日、告白しようか迷ってた」と言ったのだ。
内心動揺しながら、「そうだったの、言ってよ〜!」と軽めの返事をした。もう彼には彼女がいたから、「実は私も」なんて返事は、できなかった。
あのとき彼は時効だと言ったけれども、私にとっては時効ではない。あれ以来、誰かに告白されても、心の中で彼と比べてしまう。
やっぱりあの後にも、先にも、私にはあなただけ。
私は卒業証書を握りしめたあの日から、動けない。
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