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 ねこふんじゃったを歌いながらフォローしている『ねこパンチブログ』を開くとタイトルが『いぬパンチブログ』になっている。ねこが真剣に『ねこパンチ』しているのに『いぬパンチ』と呼ばれている。ちょっと意味がわからない。  混乱して猫のことわざを検索したらぜんぶ犬。  窮鼠犬を噛む。  犬にまたたび。  犬に小判。  犬の手も借りたい。  まさか英語もではあるまいかと『CAT』を検索すると現れたのは犬と猫の両方の説明。複数形も例外なしか確かめるためにミュージカル『キャッツ』を調べたら『ドッグズ』。『キャットフード』は『ドッグフード』。というか、古今東西、世界中の猫が犬に置換されている。呼び名が変わっている。  友だちに訊いても状況は同じ。ひっしに「猫って犬じゃないよね。自由気ままでツンデレでにくきゅうプニプニしててまるまるとあったかくて可愛いよね。猫は猫だよね」と訴えても「なに? 『ぬこ?』え? 『ねこ?』え? どっち? あんたますます頭いい感じで狂ってきてるね」と笑われる始末。  猫は猫だろう。犬じゃない。  スマホで文字変換しようにも『猫』がでてこない。ひっしの想いで漢字で『猫』を書いて友だちに見せるが「なにその文字。発明したの? なんかキモイ」と吐き捨てられる始末。  考えられる原因は風邪をこじらせたことか。40度以上の高熱が出たせいで私の腦みそが溶けた疑惑がある。私は苦しんだ。じつに一週間。生まれながらの我慢強さで乗りきれると踏んだけど2日目か3日目に気絶。生死の淵を彷徨った。たまたま自転車で立ちよった妹が瀕死の私を発見してくれて救急車にライドオン。事なきを得てぶじ退院できた。  話が進むまえにハッキリさせておこう。私は腦みそが溶けているのかもしれない。じぶんでもうすうす感じている。それは認めよう。だがしかし私は「可愛い」。綺麗ではないけど可愛い。『可愛い』は懐の深いフレキシブルな言葉だから可愛くなくても可愛いと言えちゃうが私は『可愛い』ほうの可愛いだ。まちがいない。付き合ってくださいと告られるのがなによりの証拠。しかし、である。しかしながらイタイらしい。妹が言う。 「この前もだけど自転車のってランチ行くとき『なに食べたい?』って姉ちゃん聞くから『パスタがいいな』って答えたら『カレーじゃないの!?』ってすごい勢いで驚かれるし、ヘルメットすがたで。あとアレ、自転車サークルにすごく誘われて断りきれなくてギアなしのママチャリなのにヘルメットつけてロードサイクルがんばってたし。実家にいたときはどっかの悪ガキのイタズラで自転車のサドルだけ盗まれたときなんて雨降ってたしバス使えばいいのに姉ちゃん泣きながら片手で傘さして立ちこぎしてびしょ濡れで帰ってくるし、ヘルメットすがたで。それよりなにより、じぶんでじぶんを可愛いって言っちゃってる時点でそうとうヤバイしイタすぎる。イタイ」  いろいろと言ってくれるがよくわからない。私はぜんぜんイタクナイ。そして自転車ネタが多い。自転車が好きなのは事実だからかまわんが、腦みそを守るためヘルメット装着はマストだろう、なぜそこを強調する、ノーヘルのくせに。 「大丈夫。安心して。姉ちゃん腦みそ溶けててイタイけど、無害なほうのイタイ人だから平気だよ」  イタイに無害とか有害とかあるのか。そもそも安心しての意味がわからない。最初から脳みそ溶けていてイタイから安心してという優しさなのか。ま、私は溶けてようが溶けていまいが『可愛い』からどっちでもいいけど。  そう。私の話はどうでもいい。問題は猫だ。ほんとうは猫であるはずの偽りの犬の画像を見せると「だからそれ犬だし」と友だちは面倒くさそうにする。私がしつように食い下がると「マジしつこいな。本気で狂ってきてるな」とあからさまに迷惑そうにする。猫が犬だなんて気持ちわるい。私は猫が猫であるまっとうな世界であってほしいだけなのだ。  ちなみにだが本来の犬は犬のままだ。問題は猫で、犬という枠組に猫もカテゴライズされてしまったようなのだ、私のあずかりしらないところで、いつのまにか。私いがいの人類はどういうわけか犬も猫も一括りに犬として認識しているらしい。  私は類似する問題を考えた。うどんだ。うどんは有名どころだと讃岐うどんや稲庭うどんがある。うどんを知らない外国の人や幼い子どもなら同じ白い紐状の食べ物に見えるかもしれないがあれは別物ではあるまいか。材料は似ているが作り方も特徴も異なる。腦みそが溶けているらしい私にもわかる。彼らと私とのあいだに横たわるのは経験と知識の豊かさだ。讃岐と稲庭を瞬時に区別するにはそれ相応な労力と時間がかかるのだ。  おまえだってうどんみたいに一括りにしてるなにかがあるだろうと指摘されたら私は素直に認める。まずコーヒー。いろんな種類があるようだが私にはぜんぶ黒い液体に見える。黒くて苦くて焦げている。次にビール。こちらも多々あるようだが、ぜんぶ黄色い液体に見える。黄色くて苦くて泡がある。下品だが見た目がまるでアレだ。冷やしたアレだ。想像するだけでもう無理だ。マズイに決まっている。  もちろん嗜好品だから私がマズイと感じるだけで大好きな人もたくさんいるだろう。マズイものをマズイと率直にくちにしてしまうじぶんは配慮を欠くダメ人間だから素直に謝る。すまぬ。おいしいと感じる人の趣味嗜好を否定したりはしない。腦みそが溶けていてもそれくらいの分別はつく。  そのときどきの人類の関心の高さに比例して物事は細分化されてきたのだろうから、私がただ興味ないだけで、コーヒーやビールも細分化されているのだろう、讃岐や稲庭へと細分化されるうどんのように。私はコーヒーやビールを好まないから細分化を図るための経験と知識を欲しない。足りない部分を求めようともしない。  しかし猫だ。猫を犬といっしょくたにしてはダメだろう。大きさも形も見た目もちがう。性格もぜんぜんちがう。なぜにうどんと同列に論じようとしたのか。いちばんダメなのは私ではないのか。特徴が異なる猫と犬を、似通っているうどんやコーヒーやビールと同じに扱ってはいけない。やはり脳みそが溶けている影響か。  埒があかないから友だちに言ってやった。「猫を犬って言うなら私にだって考えあるよ。私は犬って言わない。ただ猫とも言わない。みんなが認めないからね。だから『ぬこ』。『い』と『ね』のあいだをとって『』。『ぬこ』って呼ぶ」 「わかったよ。なんか意味不明だけどそれでいいよもう。『ぬこ』でもなんでもいいよ。ニャ~ってなくほうの犬を『ぬこ』って呼べばいいんだよね」  そうやって友だちからの約束をとりつけた。猫は消えたけど『ぬこ』が誕生した瞬間だ。
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