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 待った。じつに一週間。安西先生は検討すると言った。妹も聞いていた。まちがいない。  あの日は日曜日。火曜日と木曜日と土曜日、私はきちんとヘルメットを装着して自転車を走らせてあの店を覗いた。変化はない。掲示はぜんぶ犬だ。『ぬこ』の文字は見当たらない。友だちに話すと「だいぶ立派なストーカーでしょそれって」ともうキワモノを見る目つきだ。「鬱陶しいあんたを納得させて帰らすために仕方なく言ったんでしょ、なんだっけそういうの、あ、そうそう、ウソも方便だよ」  ずいぶんと言ってくれるが方便ってなんだ、ウソはウソだろう、正当化しちゃいけない。そして猫は猫だろう。私は断固抗議する。猫が犬だなんておかしいし、猫を犬と呼ぶ人の気が知れない。そっちのほうがイタイではないか。 「なんか粘着でキモイよ。あんたのキモレベルMAXだよ。っていうかキモメーター振りきってるよ。マジでキモイ。店員さん気の毒だよ。あんたみたいなイタキモイやつに粘着されちゃって。トラウマ残るよ。可哀想すぎる。あんたもイタくて憐れだけど店員さん比較にならないくらい可哀想すぎる」  そういえば土曜日、あれから一週間だからつまり昨日、私の可愛さをひがむ女性店員はショーケースに『ぬこ』の文字がないかガン見して調べていた私と視線がバチンとぶつなるなり戦慄した、たぶん、おそらく。顔を強ばらせ私と向き合ったまま私のヘルメットのあたりを見ながらバックルームに後ずさりして入っていくと代わりにラガーマンのような筋骨逞しい男性店員が現れたのだ。 「あ、なんでしたっけ、そうそう『ぬこ』の方ですよね、ご提案ありがとうございます、店長から聞きました、現在検討中ですのでその件でしたら今お伝えできることはありませんので、今日のところはお引き取りください。会社から許可が下りましたら採用させていただくかもしれませんので」  安西先生仕込の良い笑顔だ。健康的で嫌味がない。それでいてつけ入るスキもない。腦みそが溶けている私を変態扱いしない。マッチョだけどスマートだ。そう、私はマッチョに弱い。カッコイイ。あの逞しい上腕二頭筋で千切れるくらい締めあげてほしい、否、抱きしめてほしい。いや、ちがう。そうじゃない。猫だ。猫の再構築が目的だ。そのための『ぬこ』なのだ。  うっとり見つめていたのだろう。私は恋する乙女だった。マッチョな男性店員はたじろぐ。チェリーボーイかもしれない。私はチェリーが大好きだ。変な意味ではない。さくらんぼが大好きなのだ。佐藤錦サイコー! と、また逸れた。さくらんぼなんてどうでもいい。猫だ。『ぬこ』の拡散が目的なのだ。 「今日のところはこれで」そうマッチョな彼に丁重に扱われ私は引きさがった。どうして引きさがったのか。食い下がるのが私の美点なのに。これが恋? いや、ちがう。そんなわけがない。私は脳みそが溶けているのだ。ある意味無敵だ。ムテキングだ。腦みそが溶けた人類は最強なのだ。だから私は何物も恐れない。  流し目しながら出ていくあいだマッチョな彼は私だけを見つめていた。もしかして彼が? 筋肉マッチョな彼がこの私に? 可愛いからあり得る。リスクを冒してでも掌中に収めたい可愛さなのだろう。しかしどうするマッチョな彼よ、私はすでに破綻しているらしいのだ、友だち曰く、妹曰く、腦みそが完全に溶けだして良き感じのオニオンスープになっていると。  翌、日曜日。まだ客がいない開店直後、接客を言い訳に私という災厄から逃れられない時間帯、私は妹という従順な手下を連れて自転車に乗って再再再々来店した。迎え鬱、否、迎え撃つペットショップ側はフルメンバーだ。ひがみ女。チェリーボーイ。安西先生。 「姉ちゃん、なんか歓迎されてる感じしないんだけど。その『ぬこ』っての、ホントに採用されるの?」 「採否はわからん。歓迎されてるかもわからん。わからんから確かめるのだよ」  我が妹が懸念するのはあの女性店員の挙動不審さだ。可愛い私をひがみながら電話の子機を握りしめている。もしかしていつでも通報できるようにか。この私を狂乱女と見なしているのか。私が子機を一瞥するとひがみ女性店員はたじろぐ。ヘルメットのあたりに視線を泳がす。チェリーボーイは安西先生のうしろで守護神のごとく丸太のような腕を組んで微笑んでいる。嗚呼あの逞しい腕で──いやちがう、そうじゃない。あの腕は私が発狂して暴走したとき取り押さえるための筋肉であると邪推する、私を抱き千切るためにあるわけではない。 「何度かお越しいただいてたようで申し訳ありませんでした」  安西先生がお辞儀する。私もお辞儀する。すると安西先生がまたお辞儀する。だから私もまたお辞儀する。さらに安西先生がお辞儀する。お辞儀の連鎖。よくわからんがわるい気はしない。お辞儀とありがとうは多いほど良いと今は亡きじいちゃんが話していたのはこのことか。  安西先生はふたたびお辞儀すると「ありがとうございます」と礼を言う。どういうことだ。『ぬこ』のことか。よくわからないが私もお辞儀して「ありがとうございます」と礼を言う。すると安西先生がお辞儀する。だから私もお辞儀する。なぜだかチェリーボーイもお辞儀する。ひがみ女もお辞儀する。お辞儀の連鎖が加速する。私が目配せすると妹もお辞儀する。私もお辞儀する。 「そのですね、例の『ぬこ』ですが、採用される運びとなりました。弊社はチェーン展開しているんですが、全店でプロモーション化されるようです。貴重なご意見、ほんとうにありがとうございました。つきましてはあなた様をスペシャルアンバサダーとしてお迎えしたいのですがいかがでしょう? まだお名前もいただいていないのに長々とお話してしまい申し訳ありませんが」 「姉ちゃんよかったね」と妹。  どういうことか。腦みそが溶けている私なりに考えると、つまり私そのものは拒否られているが『ぬこ』は歓迎されているということか。いや、ちがう。スペシャルアンバサダー云々と安西先生は言った。  スペシャル=特別。  アンバサダー=大使。  スペシャルアンバサダー=特別大使=私。  腦みそが溶けているこの私が歓迎されているということか。ま、興味ないからなんでもいいんだけど。
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