犬と猫

3/11
前へ
/282ページ
次へ
「死んだ父さんだよ」 「……そうですか。すみません」 「なんで謝るの?」 「気分を害してしまったかなと思いまして」  失敗した。自分の中では吹っ切れていることなのに、話題が話題だけに、やはり気を遣われてしまった。慎重に、明るめの声で喋り出す。 「父さんのことなら十年も前だし、全然へーきだよ。それとも『バカ』のこと? こっちも大丈夫。俺、言われ慣れてるし。自分でもバカだなーって思うし」  へへっ、と頭をかいて笑って見せたが、先生の顔は暗い。 「どうしたの?」 「僕の『馬鹿』には敏感なのに、自分には『馬鹿』って言い聞かせてしまうのですね」  先生は俯いた。顔は見えなかったけれど、なんだか声が震えているような気がした。 「先生?」  顔をのぞきこもうとしたが、先生は後ろを向いてしまった。背中越しに、俺に話しかけてくる。 「それに、田丸さんには『馬鹿って言うな』と抗議しないのですね」  先生は気づいていたのだ。最初の日、「うちの息子、馬鹿だから大変だと思いますけど、よろしくお願いしますね」という母さんの発言に俯いてしまった俺の姿に。  ――あの時の視線は、「なんで言い返さないの?」っていう意味だったのか。 「君はどれだけ、『馬鹿』という言葉を浴びせられてきたのですか?」  どうしてだろう。先生はどうして、そんなに悲しそうな声を出すんだろう。先生が言われているわけではないのに、どうしてそんなに傷ついたような話し方をするんだろう。「バカ」は言われ慣れていて、俺自身はちっとも傷ついていないのに。  ――なんて。嘘だ。
/282ページ

最初のコメントを投稿しよう!

97人が本棚に入れています
本棚に追加