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雨が降る深い闇の中、全身ずぶ濡れになりながら、ひたすら信号を待つ夢を見ていた──。
そして、漸く信号の色が変わりかけ、束の間の安堵が訪れた。そんなときに、唐突かつ攻撃的な音で、強引に意識を引き戻された。
ドンドンッ、ダンダンッ! 適温の布団の中から、玄関の方へ目を向けると、その音とともに扉が振動している。ドンドンッ、ダンダンッ! 近所の迷惑も考えず、誰かが殴るように叩いているらしい。
「与沢さん、与沢さん、いるんだろう、出てきてくれ!」
木造アパートに響きわたる大音量で名前を呼ばれた。目覚まし時計と薄暗い空を交互に見て、まだ朝の六時にもなっていないことを知った。声の主はすぐに分かった。隣室の住人である面川夫妻の旦那の方だ。
この旦那は、俺のことをとても嫌っている。いや、憎いとさえ思っている。理由は至極単純で、嫁の早千代が俺に好意を寄せていると疑っているからだ。
「与沢さん、急いでるんだ! いるのは分かってるんだ! 早く開けろ!」
金槌で釘でも打ち込むように、扉を強く叩かれる。この御仁は、周囲に礼儀正しく振る舞って見せるが、内にある暴力的な本質は、すでに見透かされているだろうと思う。
俺は熱を保った布団からのそのそと這い出て、玄関に向かった。2Kの狭い部屋だ。わずか十歩と歩かずに、身体は扉の前に立っていた。
殺されると厄介なので、ドアチェーンをかけたままでそこを開けた。殺気立った面川旦那は、その扉のへりをがしと掴み、ぎろっとした眼で睨んできた。
「与沢さん、車を出してくれ。八時の飛行機に乗らなきゃいけないんだ。問答している時間はない。私服のままでいいから、急いで支度するんだ」
俺は個人でタクシードライバーをやっている。空港まで利用してくれれば、二日分程度の利益になる。しかし、この御仁と二人きりで長時間は遠慮したいと思った。
「電車の方が早いですよ。駅までは送りますから、電車でどうぞ」
そう言ったが、旦那は凄みのある声を響かせた。
「あんたとじっくり話したいんだよ。とにかく急いで支度しろ。免許さえ持ってくれば他は何も要らない。あと三分で出るぞ」
きっと車を出さないと納得しないのだろう。今日は朝から運が悪いらしい。俺は仕方なく返事をして、顔も洗わず、マウスウォッシュで口だけ清め、言われた通り私服で、烏龍茶をぐいっと一杯飲んでから家を出た。駐車場に着くと、旦那は俺の愛車に腰を預け、
「遅い。もう四分以上経ったぞ。時間は有限なんだぞ」
明けきっていない曇り空へ憤懣をぶつけるように、鼻筋を歪めながら声を尖らせていた。
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