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俺は運転席に乗り込み、後部ドアを開けた。即座に旦那が乗ってきて、一瞬、車の重心が左に傾いた。エンジンをかけ、メーターのスイッチを押す。然るべく「賃走」の表示が出され、とりあえず国道に向かって、ハンドルを切った。
「羽田でいいですか?」
問いかけたら、
「ああ。第一ターミナルへ行ってくれ。時間はどのぐらいだ」
と返ってきた。この時間なら、それほど渋滞もないだろう。俺は「七〇分ぐらいですかね」と多めに見積もって答えた。
何とも言えない沈黙が数秒おりて、面川旦那は腕組みをしたと同時に話し始めた。
「与沢さん、あんた、うちの早千代と寝ただろう」
予期せぬ言葉に思わず咳が出た。数度咳き込み、落ち着かないうちに急いで答えた。
「寝てませんよ! 何すか、その妄想。何でそんな考えに至ったんですか」
訊くと、旦那はバックミラーの中で不快そうに顔を歪めた。
「昨夜、早千代に言われたんだ。妊娠したようだと。それは喜べたものじゃない。何故ならあいつは与沢さんに惚れている。つまり、おれの子じゃない可能性が高いってことだ。いや、おれの子である可能性など最初からなかった。早千代が妊娠したなら、確実に与沢さんの子ってことじゃないか。違うか」
面川旦那から強い憎悪の念波が伝わってくる。わりと強面だから、後ろから首を絞められそうで怖くなった。
「面川さんは、早千代さんと……」
「軽々しく早千代さんなんて呼ぶんじゃない」
「失礼しました。面川さんは、奥さんと、そういうことはしてないんですか?」
木造アパートの薄い壁の向こうで、かなり頻繁に女の喘ぐ声が聞こえている。その声が彼の妻・早千代のものだと言うことは、疑いようもないと思えるのだが。
「夫婦なんだ。していたって不思議じゃないだろう」
平然と、旦那は言った。
「そうだとしたら、妊娠したって不思議じゃないですよね?」
言うと、旦那は厳めしげに眉根を寄せた。
「理論上はその可能性もあるだろう。だが、早千代があんたを想いながら抱かれていたとしたら、腹の子は紛れもなくあんたの子だ。それ以前に、おれに隠れて寝ていた可能性が拭えない。あんたの子じゃなく、おれの子だとする根拠はどこにある。子どもが生まれてからじゃ遅いんだ。だから、今すぐ白状しろ」
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