第1話 雨宮渚の物語は終わりました

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第1話 雨宮渚の物語は終わりました

「渚せんぱーーーい」 「……どうぞ雨宮と呼んでください」 「名前呼びから名字呼びって格下げじゃ⁉ それより、一緒に帰りましょーよ!」  今日も今日とて八時間のコンビニ労働が終わりました。  私が着替えを済ませて外へ出ると、同僚が必死にあとを追いかけてきます。  あの子ったら、あわてて着替えたのかシャツのボタンも閉めずに。あれでは下着が丸見えです。  たかが二か月差の職歴で同年齢の私を先輩呼ばわりするのも、どうにかしてほしいものですが。 「私、急いでいるので。失礼します」 「急いでる? 男ですね⁉」  一体どうしてそうなるのでしょう。加えて、失礼しますと言ったのに、あきれるほど堂々と隣を歩くじゃありませんか。  ようやくシャツのボタンを閉めた同僚ですが、下着がどうにか隠れる程度で小麦色の肌と胸の谷間は隠そうとする気配すらありません。二十三にもなって露出狂とは、あきれて物も言えませんね。 「先輩、彼氏いるんですか?」 「いませんよ。いるように見えますか?」  ああ、くだらない。  彼氏ですって?  そんなもの、ほしいと思ったことがありません。 「へー。じゃあ、好きな人は?」 「…………………います」  私としたことが、うっかり口が滑ってしまいました。  今日が待ちに待った最新刊の発売日だからでしょうか。仕事中も何度か頬が緩みそうになってしまいました。  だって、半年ぶりの新刊ですよ?  ほんの少しくらい浮かれたって罰は当たらないでしょう。 「えーいるんだ、好きな人! 気になる! どんな人? 芸能人だと誰に似てる⁉」  餌に飛びつくがごとき勢いの同僚。しかしその口から発せられた言葉に、私は緩みかけた頬がひきつるのを感じます。  芸能人? そんなもの、あの方と比べられるわけがないでしょう。  思わず「くだらない……」という声が洩れてしまいます。 「ちょっと、聞こえてますよー」 「あなたがおかしなことばかり言うからですよ」 「だって気になるじゃないですかぁ。で、その好きな人とはいい感じなんですか?」 「まさか。ありえません」  私がきっぱり言うと、同僚はまずいことを聞いたと思ったのか、憐れむような目で私を見ます。まったく始末に負えませんね。  でも、まさか「現実の方ではありませんので」なんて。  とてもとても言えませんから。 「かなわぬ、恋……?」 「あなたには理解できないでしょうね」 「そんなことないですよ!」  いいえ。わかるはずありません。  ……特にあなたのような人には。 「そうだ、たまにはぱーっと遊んだほうがいいですよ! あさって男友達とドライブに行くんです。渚先輩もバイトお休みですよね? よかったら一緒に行きません⁉」 「行きません」 「もーぉぉちょっとは考えるふりくらいしてくださいよ!」 「では私こちらなので」  分かれ道を指さし、私は軽く会釈します。  同僚はまだ何か言いたそうにしていましたが、どうやらあきらめてくれたようで、にへらっと笑って子供のように手を振りました。 「続きは明日ってことですね。じゃ、お疲れ様でっす!」 「お疲れ様です。それでは」  私はもう一度会釈して帰途につきました。同僚から解放されたことに、正直なところほっとしながら。  それがこの世で交わす最後の会話だと知っていたら、あと少しくらい、名残を惜しんだかもしれませんが。 「ただいま戻りました」  いつもと変わらぬ、帰宅時の私の挨拶です。  一人住まいのアパートなので、応える人はおりません。でも、それでいいのです。私にはただ一人、あの方がいれば十分なのですから。  あの方のご紹介がまだでしたね。  ノイン様。  ノイン=フレイムローズ様。  私が愛読する小説『アストレア帝国記』シリーズに登場する架空の人物です。  物語中の立場は──「悪役公爵」。  鮮やかな赤い髪。血のように濡れた紅の瞳。己以外のすべての人間を見下すような冷たく鋭い目つきに、酷薄な笑みをたたえた薄い唇。  額縁に入れて飾ったノイン様の公式イラスト、つまり肖像画を、私は今日もうっとりと見つめます。  この方に恋して四年。時がたつのは早いですね。  この四年間。原作を幾度となく読み返すことはもちろん、ノイン様に関するグッズはすべて買いあさりました。原作挿絵の切り抜き(もちろんこのために複数買いしております)や、お気に入りの絵師が描いた二次イラストを額に入れて部屋中に飾り、家紋であるバラの花も欠かさず生けるようにしております。去年自作したフィギュアは細部までこだわり抜きましたし、作者様経由でノイン様にしたためた恋文は千通を超えました。  同僚は「かなわぬ恋」と言っていましたね。  確かにその通りです。  ノイン様は物語のキャラクター。同じ世界の人間ではありません。  しかし私がどれほど深く愛しているか、それを言葉で説明することはできません。この気持ちを誰かに理解してほしい、と思ったことも……ありません。  ですから、これでよいのです。  さて。  それでは温かい紅茶の用意もできましたし、腰を据えて最新刊を読むことにいたします。  また新しい彼に会える──  そのことに感謝しながら。  数時間後。  私は気がつくと、夜道にぽつんと立っていました。  ここはどこでしょう。街並みに見覚えがありますから、自宅からそう離れているわけではなさそうですが。  どうやら無意識に部屋を飛び出してきてしまったようです。格好も部屋着に裸足のままですもの。  ええと、どうしてこんなところに立っているのでしたっけ……?  確か『アストレア帝国記』の最新刊を読んでいたはず……。  ………………。  ……………。  ……あ。 「ああぁぁぁぁああぁぁあああああああぁぁぁぁ⁉」  死んだ。  死んだ。  死んだ死んだ死んだ。  死んd。  sんd。  彼が──死んだ。  思い出すと同時にこらえようのない涙と絶叫がほとばしり、真夜中の路地に響き渡ります。どこからか犬の遠吠えが、つられたように合唱します。  嘘です。  こんなの嘘です。  ノイン様が死んでしまうなんて。処刑されてしまうなんて。  そんなこと絶対にありえません。  なのに思い返せば返すほど、「死んだと思わせて実は生きていた」などといった伏線を真っ向から否定してぶった切るような、そんな断定的かつ克明な文章で、彼の死が記されていました。  つまり、あの方、は。 「ふっ」  頭のどこかでぷつっという音がして。 「ふふふっ、ふ、ふふっ、ふふふははははははははは!」  私は泣きながら笑っていました。大爆笑でございます。腹筋ががっくがくに痙攣しております。人生でこんなふうに大笑いしたことがあったでしょうか。  そう。  彼が死ぬなんてありえない。  そんなことは絶対に許されないのです。  つまりこれは、大いなる過ちとしか呼べないもの。  小説のファンとして、この誤謬を正してさしあげなくてはなりません。  今すぐ作者様にお会いし、可及的速やかに説得、場合によってはちょっぴり監禁させていただいて、あの部分を書き直していただかなくては。  そうと決まればさっそく、作者様の住所を特定しなくてはなりませんね。  私はくるりと華麗にターンしますと、チーターも真っ青なスピードで駆け出しました。そして次の瞬間まぶしい光に包まれて。  これにて私、雨宮渚の物語は終わったのです。
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