208人が本棚に入れています
本棚に追加
第10話 それでは最凶を目指しましょうか
ちゃぷんっ……。
馥郁とした香りに包まれながら、湯の中にゆっくりと体を沈めます。
フレイムローズ家の湯あみには、庭から採ったばかりの新鮮なバラの花びらと自家製のローズオイルが使われます。温かい湯に肩までつかって深呼吸をすると、思わずうっとりしてしまいますね。
大理石でできた広い浴室。
頭上には大きな天窓があり、枝を広げた木々の緑が、淡い陽光に乗って私の顔や体に降りそそいでいます。
皇太子の誕生パーティーから一夜が明けました。
ですが昨夜のお兄様の笑みとお言葉は、つい先ほどのことのよう。
ますます強く、鮮やかに、私の目と耳を炙って焼きついています。
『この世で最も悪い女』
どうして忘れていたのでしょう。
私の大好きなお兄様は《悪役公爵》なのです。
あの方はいつだって冷静にして冷酷。恋などという感情でご自分を見失ったりするはずがありません。
とすれば、女性に近づく目的はただひとつ。
例えば、オーリア。オーリア=ゼイン。
ゼイン家は銀鉱山を掘り当て、ここ数年で急成長している新興貴族です。皇室や大貴族とのつながりはまだ強くありません。今のうちに取り込んでおけばよい手駒となるでしょう。
お兄様がわざわざオーリアに挨拶したのは、ゼイン家に公爵家とつながるチャンスを与えるため。
そんなことにも気づかず、嫉妬で我を失いかけた私は未熟者ですね。反省いたします。
その次は、フィー=エメルとお話なさっていました。
彼女は《帝国七血族》のひとつである《深緑》エメル家の令嬢。エメル家は帝国における教会勢力の筆頭といえます。
この先、お兄様が帝国を掌握するにあたって教会との対立は避けられません。しかしエメル家の中に手駒を作っておけば、そこからもたらされる情報によって有利に立ち回ることができるでしょう。
そして──
アイラ=ブラックウィンド。
近衛騎士団を率いる《漆黒》ブラックウィンド家。その令嬢であり、騎士見習いの彼女を手駒とすることは、前の二人よりも重要なこと。武力は何にも優先すべき事項だからです。
こんな単純なことにも気づかなかったなんて。
つくづく、自分の無能さが嫌になりますね。
だからといってお兄様に寄り添っていたあの女を許すことはできませんが……。実際どんな会話を交わしていたかについても調べる必要がありますね。
しかし、所詮は手駒。
どれもこれもお兄様の駒。
必要なのは恋人などではなく、優秀な駒であり道具。
前世の歴史において、イギリス女王エリザベス一世は生涯独身を貫きました。一説では結婚をちらつかせることで、国王や諸侯と政治的な駆け引きをしたと言われています。
公爵家当主であるお兄様が独身を保っている理由も、おそらく同じでしょう。
『お前が私の理想の女になれると言うなら』
お兄様にとって、理想とは「悪」。
誰よりも冷静に、躊躇なく──残酷になれる女だということ。
『そのときは、喜んでお前だけのものになってやる』
お兄様は嘘をつきません。
策略で敵を騙すことはありますが、味方を欺くようなことをなさる方ではありません。だからこそ、駒たちはお兄様を敬うのです。
お兄様が私のものになる。
私だけのものに。
そのためなら私は──《最凶の悪女》になります。
必ず、なってみせます。
ざぶんっ。
湯殿から立ち上がり、床に足を下ろします。
全身にバラの花びらがついたままですが、気にすることはありません。
すぐにメイドたちが集まってきてやわらかいタオルを広げ、私の体を拭きます。ですから私はただ両腕を広げ、立っているだけで済みます。
「ねえ、ミア」
「はい。お嬢様」
着替えて部屋に戻ると、ミアという名の侍女が私を待っていました。
私が転生した日、紅茶を運んできたのが彼女です。当初は様子の変わった私にちょっぴり怯えていたようですが、その怯えが今や崇拝に変わったらしく、忠実な使用人として私に仕えてくれています。
「その封筒は何?」
ソファに腰掛け、まだ濡れている銀髪を別のメイドに櫛で梳かれながら、私は尋ねました。
「こちらは、今朝届いたパーティーの招待状です」
大量の手紙を机に運びながら、ミアが答えます。
「招待状? 私に?」
「はい」
「それぜんぶ?」
「はい、ほとんどは。それと恋文と思われるものも……」
と、少し恥ずかしそうなミア。
……なるほど。
やはり昨日のパーティーで少々目立ちすぎましたね。今ごろ、エリシャのところにも大量の手紙が届いていることでしょう。
「それとこちらは、おそらく皇太子殿下からです」
ミアはそう言って、一通の手紙を差し出しました。
金の縁取りがついた封筒。裏返すと、封蝋には皇室の紋章。
中には短い手紙が入っています。
『体の具合はどうだろうか?
少しでも早く、元気になったそなたと会えるのを楽しみにしている。
次に会うときはもっと近くでそなたの瞳を見せてほしい。
私の美しい銀の姫へ。 Y』
……うん。この気持ち悪い文章は確実にユリアスですね。間違いありません。
どうやら皇太子攻略については順調のようです。エリシャとの進展はなかったのでしょうか?
惚れっぽいユリアスのことですから、両方に手紙を出している可能性もありますが。
そのあたりは今後探るとして──
コンコン。
ノックの音がして手紙から顔を上げます。
少し間があってから、
「あの……」
扉の向こうでか細い少年の声がしました。
「僕です。姉様」
メイドたちが戸惑ったように顔を見合わせます。
私たち公爵家の人間は、基本的に互いの部屋を訪ねることがありません。用事がある場合は使用人に言付けをするか、お茶や食事に誘うのが普通です。
ミアも困った顔で私を見ます。
湯あみ後の私はまだ髪が濡れていますし、身に着けているのもドレスではなく、ゆったりとした室内着。部屋に招き入れるのはまずいと思っているのでしょう。
「……別にかまわないわ。私の弟よ」
ミアにそう言って、私はドアに顔を向けました。
「入りなさい、リオン」
また少しの間があって。
遠慮がちに扉が開き、銀髪の少年が部屋に入ってきました。
リオン=フレイムローズ──
私と半分血のつながった弟にして、お兄様の仇となる者が。
最初のコメントを投稿しよう!