223人が本棚に入れています
本棚に追加
第5話 予習はとっても大切です
「おや、フラウお嬢様ではありませんか。今日はおひとりでお勉強ですかな?」
「ええ、ちょっと」
翌日。
私が屋敷の読書室に入っていくと、教育係のじいに声をかけられました。弟の授業で使う教材を選んでいたようです。
公爵家の子女には数名の教育係がつけられています。
私も今日の昼過ぎまでマナーとダンスのレッスンがありました。
明日のパーティーに向けてお兄様から指示があったのか、教育係はみな追い詰められたように血走った目をしていましたね。とても熱心に指導してくださったので、私もそれに応えて真剣に取り組ませていただきました。
とはいえ、フラウは異様に呑み込みのよい娘。あっさり彼らの課題をパスしてしまいましたが。
おかげで少し時間ができましたから、こうして読書室へやってきたというわけです。
「リオンはこれから語学のお勉強かしら?」
じいの手にした本の背表紙を見て尋ねます。
私の父方の祖国──隣国で使われている文字ですね。
まだ赤ん坊の頃にその国を離れましたが、言語については授業で習得済みです。
「はい。リオン坊ちゃまは大変見どころのある生徒でございますよ。フラウお嬢様が特別に優秀でございましたから、姉君に追いつこうとしていらっしゃるのでしょうなぁ」
ふぉっふぉっふぉと白い口髭を揺らしてじいは笑います。
「そうですか。では、どうか厳しく指導してやってくださいね」
私はそう言って、じいの横をすり抜けました。
どうせそのうち私に始末される弟──
勉強など教えたところで無駄ですのに。
さて、目的の本はこれですね。
最新の『貴族年鑑』。あらゆる貴族の名前と生まれ年、それに髪と瞳の色まで載っています。
分厚いその本を棚から引き抜いて、手近な椅子に腰掛けます。
明日のパーティーに出席する貴族について覚えなければなりません。皇太子の誕生パーティーに招かれる家柄は上位に限られますから、フラウの優秀な記憶力があれば容易いでしょう。
その中でも最上位の家柄──《帝国七血族》は必須の暗記項目ですね。
《帝国七血族》とは、建国の時代から続く古い七つの名家のこと。彼らは帝国内で絶大な権力を持ち、それぞれの髪や瞳の色に因んだ二つ名を持っています。
《黄金》アストレア家。初代皇帝の偉大な血を受け継ぐ皇室本家。
《白銀》シルバスティン家。初代皇帝の妹の血を引く皇室分家。
《真紅》フレイムローズ家。宰相を歴任し政治をつかさどる公爵家。
《紺碧》アズール家。数学者や法学者を輩出する学者肌の伯爵家。
《深緑》エメル家。信仰を説き教会を束ねる大司教の家系。
《紫苑》カトリアーヌ家。豊かな資産を持ち商売や芸術を振興する侯爵家。
《漆黒》ブラックウィンド家。近衛騎士団長を務める武人の家系。
原作の主要キャラクターは、ほとんどがこのいずれかに属します。
お兄様はもちろん《真紅》ですし、皇太子は《黄金》。ヒロインは《紫苑》。そして私の亡き母は《白銀》の出身でした。
お兄様を狙う令嬢候補としては、《真紅》を除く六家をもっとも警戒すべきでしょうね。
「おや、珍しいものをお読みですな」
「!」
驚いて振り向きます。
いつの間に背後に立っていたのでしょう。とっくに読書室を出て行ったとばかり思っていましたのに。
「びっくりさせてしまいましたかな?」
じいは分厚い眼鏡の奥でおどけた表情をします。
彼は母に付き従い、シルバスティン家から移ってきた使用人のひとり。母が亡くなってからは私やリオンを何かと気遣ってくれています。
……背後から音もなく忍び寄るのは勘弁していただきたいものですが。
「はて、『貴族年鑑』をお読みになるとは。明日のパーティーに出席される方々の予習ですかな?」
「ええ、まぁ……」
私はあいまいに微笑みます。
十代から二十代の令嬢をすべて頭に叩き込み、お兄様に近づく女の身元を片っ端から特定するため──とは言えません。
すると、じいはちょうど私が開いていたページに目を落として眉をひそめました。
「残念ながら、シルバスティン家の参加はないでしょう。若君が病弱でいらっしゃると聞きますからの」
シルバスティン家の現当主は七歳。若くして病没した父親と同じ虚弱体質で、兄弟はおらず、今は母親が代理で領地を治めているそうです。
言われてみれば、原作に《白銀》の貴公子は出てきませんでしたね。
「明日のパーティーではお嬢様が唯一の《白銀》でしょうな。きっと大いに注目されますぞ」
そう言ってニコニコするじいに、私はこほんと咳払いします。
「………私は《真紅》の人間ですよ」
「おっと、左様でございますね。これは失礼をいたしました」
しまったという顔をして頭を下げたじいは「おお、そろそろリオン様の宿題も終わったころ……」などと嘯きながら退散していきました。
まったく、困った人ですね。
確かに《白銀》の血統が貴重であることは事実です。母がフレイムローズに嫁ぐ際、私をシルバスティン家の養子として残す話もあったくらい。連れ子として公爵家に煙たがられるよりそのほうがいいだろう、と。
しかし母は頑として私を手放さなかったので、ここにこうしているわけですけれど。
私は目を閉じてフラウの記憶をたどります。
初めてここに来た日──
あの日はとても寒かったような気がします。
屋敷を囲むように植えられた薔薇の花びらに、真っ白な霜が降りていましたから。
馬車を降りた私たちを出迎えたのは前公爵と……幼いノイン様。
七歳のノイン様はびっくりしたように私を見て、三歳の私もその鮮やかな赤い髪と瞳にぼーっと見とれて。
そして、彼はやさしく笑って言ったのです。
「雪の妖精みたいだね」
って。
…………………う。
ぅああああぁぁぁあぁああああっ‼
こほん。
失敬。あまりにもすばらしい記憶のため感情が少々乱れてしまいました。
お小さいノイン様の笑顔の破壊力といったら、思い出すだけでよだれを垂らしてしまうレベルに達していらっしゃいますね。
もし私がシルバスティン家の養子になっていたら、お兄様への報われぬ恋に苦しむことはなかったでしょう。でも、フレイムローズ家に来ていなければ、あの笑顔を見ることもなかった。
そう考えると複雑な気がいたします。
まぁ、過ぎたことを考えても仕方ありません。今の私にできることは、明日のパーティーに備えて予習とイメトレに励むことだけ。
それに、明日の任務は令嬢たちを監視するだけではありません。
お兄様の寵愛を得るためには、私がお兄様の野望にとって、必要不可欠な存在にならなければなりませんもの。
そのための──皇太子攻略。
原作の知識があるとはいえ、そう簡単にはいかない任務でしょう。
明日会うことになるであろう手ごわいライバルを思い浮かべます。
シリーズ全編にわたってあらゆる男たちに求愛され、ひたすら溺愛される運命を持った祝福されし少女。
絶対的ヒロイン──
エリシャ=カトリアーヌを。
最初のコメントを投稿しよう!