第8話 私としたことが不覚でした

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第8話 私としたことが不覚でした

 ダンスの間中、甘い囁きを耳元に浴びせてくるエリシャをなんとか御しきって、私たちは深々とお辞儀をして離れました。  周囲からはほぅっというため息が漏れ、盛大な拍手が鳴り響きます。 「なんともすばらしい光景でしたな」 「眼福とはこのことを言うのでしょうね!」 「殿下も見とれていらっしゃったぞ」  まったく、おかしなことで注目を浴びてしまいましたね。  モブ貴族たちにどう思われようとかまいませんが、果たしてお兄様はどう思っていらっしゃるやら……。  お兄様は……。  お兄様……。 「……………………」  お兄様?  ──いない。  いらっしゃらない。  私の視界にいらっしゃらない⁉ 「フラウちゃん、あの、よかったら今度おうちに遊──」  何やら近くで声がしますが、もうそんなものは耳に入りません。  私としたことが、完全に不覚でした。  お兄様を見失ってしまうなんて。  まさかどこかの令嬢と踊っていらっしゃるのでは──  ぞっとしながら見回しますが、ペアになっている男女の中にもお兄様は見当たりません。  お兄様、どこですか……?  冷水を浴びせられたように手先がしびれ、喉の奥に錘がぶら下がっているような鈍い感覚がいたします。  この世界への転生。  それはあまりに唐突なことで、戸惑いもしました。しかしこの小説世界に来られたことは、私にとってこのうえない僥倖でした。  ノイン様が──いらっしゃったから。  あの方をそばでお守りすることができる。  それが私の拠り所。存在意義と言っていいでしょう。  お兄様さえいれば、どんなことが起こっても怖くなんかありません。  でも。  お兄様が、いなければ。  足早に会場を横切ります。ドレスの裾がもつれて、転びそうになります。  いない。  いない。  私の目はぐるぐる回って、鮮やかな《真紅》を探し求めます。  いない──どこにも。  とうとう会場の端に行きついてしまい、そのままドアの隙間をくぐり抜けて廊下に出ました。  ひやりとした空気。  煌びやかな会場とは打って変わって廊下は薄暗く、静まり返っています。  そういえば貴族の中には、パーティーの最中に恋人と示し合わせて会場を抜け出し、静かな場所で逢引きする者もいるとか……。 「っ、っ!」  ぶんぶんぶん!  ありえません。お兄様に限ってそんなことは。  きっと、あのような雑多な人々に囲まれて気分を悪くされ、どこか静かなところで休んでいらっしゃるに違いありません。  ええ。そうです。そうに決まっています。  ひとつずつ扉を開けて部屋を確かめながら歩き回っていると、かすかな話し声が耳をかすめました。  サッとその方向へ足を向かわせます。  それにしても、私はどうしてこんなにも足音を忍ばせているのでしょうか……? 「………。………」  ひそやかな声。  恋人たちが交わす囁きのような── 「………………」  曲がり角からそうっと顔を出して。  廊下の突き当りに目が釘付けになります。  大きなガラス窓の前で、青白い月明かりを浴びた男と女。  女はチャイナドレスのような形の衣装。肩まである真っ黒な髪。  男は黒を基調とした麗しい礼服に、月明かりの中でも鮮やかな赤い髪。  二人はまるで恋人のように顔を寄せ合い、何かを囁き合っています。  …………。  え?  恋人のように?  …………………あの女、誰?  改めて目を凝らします。  夜の闇より黒い髪。瞳も黒曜石のような漆黒。引き締まって細い、すらりとした体つき。年は私よりいくつか上でしょうか。  アイラ=ブラックウィンド。  彼女は間違いなく、近衛騎士団を統べる《帝国七血族》のひとつ、ブラックウィンド家の令嬢です。野生の鹿を思わせるしなやかな手足は、彼女自身がかなりの剣の使い手である証拠。  原作で、彼女がお兄様に近づくなんて描写はありませんでしたが──  そう──お兄様と──  私の、お兄様、と。 「…………」  コロそう。  私の中で声が響きます。  コロそう。  コロそう。  コロそう。  コロそう。  コロそう。  コロそう。  コロそう。  あの女を──  殺しましょう。  ええ。今すぐ。  それなのに、体が言うことを聞きません。  どうしてでしょうか。体中が凍えるほど冷たくて。氷漬けになってしまったよう。  一刻も早くあの女を抹殺しなければならないのに。  どうして……私は動けないのでしょう? 「………お兄、さ、ま」  かすれ、しわがれた声が喉の奥から洩れます。  ふっとお兄様がこちらに顔を向けました。  その美しい紅の目が驚いたように見開かれています。 「フラウ」  女のそばを離れ、足早にこちらへ歩いていらっしゃいます。  気がつけば、私は床に膝をついて屈みこんでいました。まるで雪山で遭難した人のようにガクガク震えてしまっています。息も、うまくできません。 「どうした? どこか具合が悪いのか」  お兄様のあたたかな手が私の肩を包みます。  だめ。こんな醜態をお兄様にお見せしてはいけない。  平気な顔をお見せしたいのですが、うまくいきません。かすかに首を横に振るのが精いっぱいです。 「すまない。お前から目を離すべきではなかったな。……今夜はもう帰ろう」  いいえ。  お兄様はちっとも悪くありません。  悪いのは私です。  お兄様の腕に包まれながら、私はゆっくりと長く息を吐きます。  あなたから目を離した、私が悪かったのです。
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