I プロローグ

1/1
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/222ページ

I プロローグ

「――先生、私はどうして人の心が分かるの?」  万年筆で紙に文字を書く音、そして規則正しい秒針の音が響く、清潔な診療所。床に付かず宙に浮いた足をぶらつかせながら、私はなんと無しに、“先生”の背に向かって問いを投げ掛けた。  すると先生はペンを置き、振り返って私と視線を合わせた。  色素の薄いアッシュの髪と、ブルーグレーの瞳。不健康な程に白い肌をした先生は、まるで物語の中で語られる“天使”の様だった。そんな彼が私の瞳を真っ直ぐに見つめ、徐に口を開く。 「それは、君が天使だからだよ」  優しく紡がれる言葉は神様のお告げの様で、ふわふわと幼い心を揺るがす。 「天使……」  復唱する様に呟くと、先生は「ああ、そうだ」と言って深く頷いた。 「人を救うのが天使の役目だ。君は神様から素敵な能力を授かった天使なのだから、その力を使って人を救ってあげなさい」  私は先生の言葉に、否定も肯定もしなかった。ただもう一度、口の中で「天使」と呟く。 「今は分からなくとも、いつか理解できる日が来るよ」  先生が私に手を伸ばし、頭をぽんぽんと2回叩く様に撫でた。    まだこの世に生を受けてたったの5年しか経っていなかった私には、先生の言葉の意味を良く理解する事が出来なかった。だが、親に捨てられ、その親からもずっと化け物扱いされていた私にとって、“天使”という言葉は非常に甘美なものだった。  私を見つめるブルーグレーの瞳が、優しく細められる。  私が天使ならば、先生は神様だろうか。そんな事を呑気に考えながら、先生が淹れてくれたエルダーフラワーのハーブティーを口にする。マスカットを連想させる香りを放つそのハーブティーは、私の口に合う物では無かった。しかし、何故だか心が休まる様な、温まる味がした。  ――時は19世紀末、大英帝国ロンドン。  これは私の過去と現在を描いた、歪な愛と長い後悔の話。
/222ページ

最初のコメントを投稿しよう!