其の四 涙雨のあとは

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 桜が散りゆき、舞い落ちた花びらたちを押し流すように雨の季節が近づいてきた。梅雨入り宣言はまだ先のようだが、各地の雨模様は連日伝えられている。  ここ大阪も、最近は雨の降っていない時を探す方が難しい。  今日も、外はしとしと雨が降っていた。まるで誰かが泣いているようだと、誰かが言った。  だが誰かの涙であっても、他の誰かは気づかず通り過ぎる。この街は、雨が流れゆく如く、人が行き交う場所だから。  そう、この街は雨が降っていても静かになることはない。地上では色とりどりの傘が道を埋め尽くして、いつもと違った風景になる。それはそれで、賑やかだった。  初名の歩く道も華やかに彩られているのかと思いきや、残念なことにこちらはいつもと変わらなかった。  初名の大学と家との往復ルートは、阪神電車改札を出たら阪急電車改札へ向かうというものだった。そこは地下から阪急駅舎が繋がっており、一歩も外へ出ずに行ける。大学からの帰り道も、最寄り駅から梅田駅へ、そして阪神の大阪梅田駅に向かう間、手にした傘を開かずにすんで、傘が乾きかかっている。そういう時はすごく快適だと、初名は思っていた。  だが一つ、難点がある。  それは、初名の通学ルートが、ほぼ必ず地下街を通るという事。風見や弥次郎、そして辰三という奇妙な人々(・・・・・)に見つかりやすい、地下街だ。  困ったことに、阪神電車の改札に通じる道が、地下街のすぐそばにある。まだこの周辺の地理に詳しくない初名にとっては、背に腹は代えられないという状況だった。  別に何か悪いことをされたり、危ない目に遭わされたということはないのだが……できることなら、関わらない方がいいような気が未だにしている。だから今日も、周囲を見回して、一気に改札近くまで走り抜けてしまおうと考えていた。  ひと月ごとに、いや時には数週間ごとに変わる広告ディスプレイをちらりと見ながら、初名は改札への道を足早に駆けた。  だが、ふいにその足を止めた。  周囲には溢れかえる人の波。ただ歩き、行き交うだけで喧噪を作り出す。そんな中で、喧噪とは違う声が聞こえた。 「ここ、どこ……?」  不安げな声だ。ともすれば周囲の人々の声に紛れてかき消されてしまいそうなか細い声だ。初名は、そんな声に覚えがあった。数ヶ月前、自身も何度も口にした言葉だ。  初名は反射的にその声の主を探した。  声は男性のものではない、大人のものでもない。そして初名の耳よりも下の方から聞こえた気がした。  地下街を行き交うのは大人がほとんど。その身長の波に隠されているであろう人影を、初名は周囲を見回した。  そして、見つけた。大きな広告ディスプレイの脇に、所在なさげにちょこんと立つ、男の子の姿を。  初名は男の子の前に立ち、そっとかがんだ。知らない女性と目が合ったからか、男の子はぽかんとして初名を見つめた。  男の子は、泣いてはいなかった。だが垂れた眉や小さく震える肩が、胸の内の不安を伝えていた。  初名は、そっと手を差し出した。 「大丈夫? 迷子?」  男の子は、おそるそおる頷いた。 「よし、じゃあ一緒にお父さんとお母さん、探そう」  男の子はまだぼんやりと初名を眺めていた。だがその瞳は、先ほどまでの不安や恐れといったものは、映していなかった。
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