其の四 涙雨のあとは

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 初名が差し出した手を、男の子はおずおずと握り返した。 「さてと……どっちの方から来たか、わかる?」  尋ねると、男の子はふるふると首を横に振った。 「そっか、じゃあ……アナウンスしてもらった方がいいかな。お父さんとお母さんの名前わかる? というか、どっちと一緒に来たの?」  そう尋ねると、男の子はまたも首を横に振った。 「? まさか一人で来たの?」  男の子は、ようやく頷いた。初名は目を見張った。  男の子の格好は、シャツに簡素なズボン……それだけだった。鞄も何も持っておらず、身一つという状態だ。だからこそ、誰かと一緒なのだと思っていた。 「えーと、じゃあ……どこに行くつもりだったの? わかる所まで着いていこうか?」  その問いに、男の子はしばし迷っていたが、やはり首を横に振った。 「わからへん」 「”わからへん”……?」 「ここがどこか、わからへん。どこに行きたかったんかも、わからへん。どこに帰るんかも、わからへんようになった」  その声は、まるで清流のように澄んだ響きだった。だが迷いからか、ほんの少し震えていた。 「落ち着いて。じゃあまずは、どこから来たのか教えてくれる? どこか、遠いところ?」 初名は、男の子の手を両手で包み込んだ。冷房のよくきいている地下街において、自然では感じないぬくもりがじんわりと生まれた。  男の子はそのぬくもりを感じ取るかのように俯いて、考え込んでいた。 「……近く」 「そっか。この近くに住んでるんだ」  日本有数の巨大繁華街・梅田だが、ほんの十分ほども歩けばマンションなどが林立する場所もある。初名と同じく遠方からこちらに来た学生の中にも、この近隣に住んでいる者が数名いる。  それならば、この場所でこの軽装でいることも、どことなく理解できる。 「じゃあ、どこかに行こうとしてたのかな? 電車に乗るとか?」  男の子はまた考え込んで、首を横に振った。 「ここに、来たかった」 「ここ? 何かお買い物?」 「……友達に会いたかってん」 「と、友達?」   男の子は、静かに頷いた。 「友達って……待ち合わせしてたとか? それとも、ここのお店で働いてる人?」  男の子は、いずれの問いにも首を横に振った。だが、それ以上を答えることはなかった。何かを言おうとして、ぐっとこらえているようだった。  何か事情があるのか、それを聞いても良いのか、初名は迷った。だが迷って言葉を飲み込んでいると、男の子は急にふわりと笑って顔を上げた。 「ありがとう。でも、もう帰らなあかん」 「そ、そう? お友達は、いいの?」 「うん。もう、ここにはいられへんし……」  頷くものの、男の子の顔はどこか暗い。やはり、まだ心残りがあるのだ。 「……わかった。今日は帰らないといけないんだね?」 「うん」 「じゃあ、今度また、私と来よう」 「……え」  初名はもう一度男のこの両手をぎゅっと握った。 「私、ここ毎日通ってるから、少しはわかるよ。何かあれば地図を見たり、案内所に行けばいいんだし。だから、私と一緒に必ずお友達に会いに行こう」 「……うん」  男の子は、ほんの少し頬が赤く染まったようだった。俯いてしまったが、その口の端はうっすら笑っている。  嬉しい、ということだろうか。 「よし、じゃあとりあえず地上に出ようか」  初名はそう言うと、男の子の手をとって歩き出した。すぐ近くに旧泉の広場がある。そこから地上へ出る階段が伸びている。  階段と地下街の入り口はガラス戸で仕切られていた。開きっぱなしになっている時もあるのだが、今日は雨が降っているからか蒸し蒸ししているからか、閉じられていた。  初名がそのガラス戸を押し開くと、階段にかかる半透明の屋根を通して、曇天が目に映った。そして頭上からは初名が避けてきたざあざあという音も聞こえてくる。 「やっぱりまだ降ってたかぁ」  ほんの少ししょんぼりしていると、男の子が一歩、進み出た。 「ここで、ええよ」 「え?」  ここは、まだ地下街を一歩出たばかりの場所だ。男の子の家がどこかは聞いていないが、少なくとも住宅街まではまだ距離がある。 「えーと……道、わかる?」 「出口が、わからんかっただけやから」  男の子は静かに頷いて言った。そして、先ほどの不安げな面持ちとはまったく違う、柔らかな笑みを向けると、くるりと背を向けた。体重を感じさせない軽やかな動きだった。 「あ、待って」  初名が声をかけると、男の子はくるりと振り返った。ほんの少し、不思議そうな顔だ。 「これ、使って。濡れちゃう」  初名はそう言って、手に持っていた傘を差しだした。外はまだ大降りなのだ。ほんの数秒歩いただけでずぶ濡れになることは目に見えていた。 「……ええの?」 「いいのいいの。こっちこそごめんね、女物だから差すの恥ずかしいかも」  男の子はくすりと笑って、首を横に振った。 「ありがとう。”今度”、必ず返す」 「うん、お願い。そうだ、名前は? いつ会えるかな?」 「……いつになるかは、わからへん。でも……」  男の子は、傘をぎゅっと握りしめて、初名に近づいた。手を繋いで歩いたときよりもずっと近くに。そうして、初名の耳元に唇を寄せて、囁くように言った。 「|清友≪せいゆう≫」 「せ、清友?」 「それが名前やから……覚えといて」  そう言って、男の子は……清友は、ニコリと笑った。そしてその次の瞬間、空気に溶けるかのごとく、消え去った。 「……あの子って……」  もしや、また……そんな考えが、初名の思考を占めたのだった。
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