其の四 涙雨のあとは

6/20
前へ
/110ページ
次へ
 なんやかんや、週に1回は通う(連れ込まれる)ようになってはや1ヶ月ほど……初名もこの横丁の基準に少しずつ慣れてきている。ここに住まうはあやかしたち。人間とは寿命の長さが違う。弥次郎も辰三も、百年前といった単語を平然と口にするし、風見はそれを”新しい”と呼ぶことすらある。  この琴子と礼司はあやかしではなく、人間らしい。だが、既に死した人間……つまりは幽霊なのだ。  だから初名が思いつくよりもずっと長い時間を過ごしているだろうと思っていた。開店百周年と言われても驚かない覚悟をしていたが、この反応は予想外であった。 「ごめんなぁ。うちら、気が付いたら風見さんに拾ってもろて、ここでお店やってたから……」 「まぁええがな」  琴子のしょんぼりしかけた眉を押し上げるような、力強い声が響いた。気付けば風見が、のどかにコーヒーをすすっていた。 「今幸せなんやったら、それでええやろ」 「う~ん、でもよく考えたら、うちら結婚何周年かもわからへんていうのも、どうなんかなぁ」  琴子は、店の奥にいる礼司をちらりと見て、ちょっとだけ悲しそうにため息をついた。そして、弥次郎がそれを見て、ため息をつき返した。 「何言うてんねん。キミら、初めて来た時から金婚式みたいやったやないか」 「あら、そぉ?」 「そうそう。扱いに困るのんが来たなぁて当時は思ったわ」 「いや、辰三さん、ひどいなぁ」  そう言うと、琴子はけたけたと笑った。いつもの、鈴を転がしたような笑顔が戻っていた。 「確かに、今は毎日、皆が食べに来てくれて、美味しいて言うてくれて……あと、礼司さんと一緒に()れて……幸せやわぁ。幸せばっかりや」 「うんうん。良かったなぁ」  すっかり半分受け流す体制が板についている風見たちであった。初名はというと、なかなか同じようにはできず、一緒になって笑うしかできなかった。  そんな琴子の笑顔の向こうにあるものに、目が留まった。 「あれ……」 「ああ、あれ?」  初名が見つめていることを知り、琴子は小走りでそれを取りに行った。そして、これまた嬉しそうに初名たちに見せ(びらかしてい)た。  花瓶と、そこに活けてある花を。 「これなぁ、お店の前に置いてあったんよ」 「え、お店の前に……ですか?」  この横丁は、全員が顔見知り同士。贈り物なら堂々と顔を突き合わせて渡してもなんら差し障りない関係が築けている。  差出人不明の贈り物など、不可思議と呼べた。  そう思っているのは、風見たちも同様のようだった。 「誰が持って来たんやろな?」 「はっきりとはわからへんけど……うちの人なんとちゃうかなぁ」 「えーと……根拠は?」  そう風見が尋ねると、琴子は嬉しそうに、だが声を潜めて、こそこそ話した。 「だってうちの人、照れ屋やもん」 「あーハイハイ、ごちそうさん」  念のため言うが、今のは食後の挨拶ではない。のろけに対する挨拶である。  琴子は、花瓶に丁寧に活けられた花を、愛おしそうに撫でた。一つ一つは小さな花で、白、淡いピンク、紫などの色が並ぶ、淡く可憐な花の束を。 「あの人に聞いたら、照れてるんか『違う』て言うけど、絶対そうやわ」 「良かったなぁ……さすがは横丁随一のおしどり夫婦や」  やや投げやりな辰三の物言いを、琴子は軽く笑って流した。  初名もつられて笑っていたが、その視線は琴子ではなく、その手元にある花瓶に向いていた。  初名は、どうしてか理由はわからないが、その花束が礼司から贈られたものではないように思えていた。 数度会っただけではあるが、礼司が無口だが誰よりも妻を大切に思っていることは、伝わってきた。そんな礼司が、琴子に贈る大事な花を地面に置いたままにするだろうか……そう思ったのだった。
/110ページ

最初のコメントを投稿しよう!

120人が本棚に入れています
本棚に追加