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「あの二人に、店始める前のことは聞くな」
注文を聞いた琴子が奥に引っ込むなり、急に真顔になった風見はそう告げた。
風見の面持ちは、呆れたような様子ではなかった。どちらかと言うと、怒っているようであり、そして悲しそうだった。
そしてそれは、同じ場所にいる弥次郎も辰三も、同様だった。
「ど、どうして……でしょうか?」
「忘れとるからや。聞いたら、下手すると思い出してまうかもしれへんやろ」
「だから、どうして思い出したらダメなんですか?」
風見は苦々しいように唇を歪めた。それが初名に向けられた感情ではないことは、わかっていた。だから初名はそれ以上を追及してよいものかと迷っていた。
すると、言葉を選びながらも、ぽつりと辰三が言を継いだ。
「あの二人はな、殺されたんや」
「タツ!」
弥次郎の咎めるような声にも、辰三はため息交じりの声で返した。
「何も言わんと、追及するなっちゅう方が無理やろ。多少説明しといた方が、聞いたらあかん理由がわかって、この子もスッキリするんちゃう?」
辰三の言葉に、弥次郎も風見も、返す言葉がなかったらしい。それを合図として、辰三が初名の方を向いた。その視線は、初名に向けても、了承を求めているのがわかった。自分の話で、納得しろ、ということだ。
「言うたかて、僕らもよう知らんで。何でも、二人は好き同士やったけど結婚を許してもろてなくて、実家から逃げてきたらしいんや。その時に、なんや刃傷沙汰があったとかなかったとか……」
「……忘れもせん、酷い有様やった」
その光景を思い出すことすら忌々しいというように、風見は俯いた。
「雨が激しい日やった。二人とも、境内のすぐ傍で血ぃ流して、あっと言う間に冷たくなっていった。土砂降りの雨と風が、あれだけ溢れ出とった二人の血を、あっさり洗い流していきよった。雨が上がった後……二人はずぶ濡れの中で眠ってしもたように、手ぇ繋いだまま、横たわっとったわ」
「風見さんは、その現場を見たんですか?」
風見は小さく頷き、苦々しい声をはき出した。
「……見ているしか、できひんかった」
風見の手は、わずかに震えていた。まるで自分が罪を犯したかのような、苦し気な声音だった。じわじわと、聞いている者の旨の家にまで染み入ってくるような声だった。
そこへ、カン、と大きな音が響いた。弥次郎がたばこ盆に火を落とした音だ。
「わかったやろ。そんな苦しいこと、忘れとるんやったらそのままがええんや」
隣に座る辰三も、何も言わずに頷いていた。
そこへ、大きなお盆を持った琴子の影が差した。
「おまちどおさま。どないしたん? 皆さん暗い顔して……」
琴子の明るい顔がほんの少し曇った。風見たちは顔を見合わせて、一瞬の後にニコニコ笑い出した。
「暗い顔て何が? ちょっと腹すいとっただけやん」
「そうやで。期待しとったんや。今日が記念日なんやったら、なんや特別な料理出すんちゃうかってな」
「そうか、量がいつもより多めになっとるんでもええで。琴ちゃん、どう?」
「いやぁ、かないまへんなぁ。ほな後で、ちょびっとだけ、サービスさせてもらいます」
琴子はそう言いつつ、先ほどよりも上機嫌で奥に戻っていった。記念日の話題に触れてもらえたことが、よほど嬉しかったらしい。
店の奥から、微かに礼司と琴子の声が聞こえてきた。琴子に相づちをうつ礼司の声までが、心なしかいつもより軽やかなものに聞こえた。
「な? 琴子も礼司も、今、幸せやねん。それをわざわざ壊す必要なんぞあれへんやろ」
「はい」
初名は、琴子と礼司の幸せそうな顔を見て、心から頷いた。
自分を殺した人間すらも忘れるほどの幸福に包まれている。それはなんと奇跡的で、幸運なことか。
初名は琴子が運んでくれた温かな味噌汁を口に含み、そう、思った。
「……とっても、美味しい」
すると、隣からすぅっと手が伸びてきた。そんな気配を感じ、とっさに身構えると、手は初名の髪に軽く触れて、すぐに離れた。あとには、何かの感触が残った。
触れると、それがたんぽぽの花であることがわかった。
見ると辰三のソーサーからタンポポの花が消えていた。
「え? これ……」
「あげるわ。僕いらんし。それあげるから、あの二人のことは、これでおしまいにしとき」
初名は、驚き過ぎて声が出なかった。いつもなら声が大きいと怒られるところであろうが……。向かいの席からニヤニヤした顔を向けられていることも、耐えがたかった。
「優しいなぁ、タツ」
「ほな俺らも、あげるわ。花は似合う|者≪もん≫が持っとった方がええしな」
そう言って、風見は弥次郎と自分のソーサーにあったタンポポも重ねて、初名の髪に挿したのだった。
「こ、こんなに貰っても……」
「|貰≪もろ≫とき。ええことあるかも、しれへんやん?」
初名が遠慮しようとした声は、三人揃ってコーヒーをすする大きな音にかき消されたのだった。
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