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あの日以来、俺はノラと距離を取るようになっていた。
それはノラに触れられると、腹の奥から熱した赤黒いコールタールのような感情が呼び覚まされてしまうからだ。
あの感情が起こる度、俺は悪夢にうなされた。
俺を罵倒する母親の声。
痛みは忘れたが、竹箒で叩かれる度にビシッビシッっと響く竹のしなる音が俺を苦しめる。
あの日、竹ぼうきで俺を殴り続けたお袋は、近所の人に取り押さえられた。
「キャー!」
「誰か、警察に電話しろ!」
あの日、道路で身体を丸めて痛みに耐える俺を竹ぼうきで殴り続ける母親を見て、通りかかった女性が悲鳴を上げた。
ガタイの良い男性が母親を俺から引き剥がしても、母親は竹ぼうきを俺に向けて振り回し続けた。
ちょっとした騒ぎの中、警察と児童相談所の人が現れて、俺はこの日をさかいに母親から引き離された。
児童相談所の人に連れられて歩く俺の背中に
『お前は不幸を呼ぶんだ』
『啓太じゃなくて、お前が死ねば良かったのに』
『あんた達も、そいつのせいで不幸になる』
と、母親はずっと罵声を浴びせ続けた。
これがきっかけで母親の虐待が明らかにされ、父親は警察や児童相談所の人に
「虐待は私が居ない昼間にやっていたので、全く知らなかった」
と嘘の供述をした。
本当は父親も、母親が俺を虐待していたのを知っていた。だけど、止めると逆上して父親にも暴力を奮うので、母親と関わらないようにして見て見ぬふりをしていたのだ。
あの日から、俺は誰かを好きになる度に母親の俺を罵倒する声が聞こえるようになった。
どんなに耳を塞いでも、母親のヒステリックな声がこだまする。
そしてヒステリックな声が止むと、今度は泣きながら
『啓太、許して……。海を産んだ、私を許して……』
そう呟いてはすすり泣く。
その度に俺は、実の母親からさえも存在を疎まれている自分の境遇を受け入れて行った。
そう……、俺は誰も愛してはいけないのだと。
「にぃに……」
耳を塞いで蹲り、泣いていると啓太の声が聞こえた。
耳を塞ぐ俺の手に触れると
「にぃに、痛いの?」
あどけない瞳が聞いてくる。
誰からも愛され、その為に生まれて来た啓太。
それに比べて俺は、何故か両親から愛されなかった。
両親の愛情は、いつだって啓太に向けられていた。そんな俺に啓太は懐いてくれて、いつだって啓太が呼ぶのは俺だった。
そんな啓太を、俺は殺したのだ。
啓太、俺を恨んでいるのか?
憎んでいるのか?
啓太、ごめんな。
俺は絶対、幸せになんかなれないから。
だから、許してくれよ……啓太。
俺の言葉に
「にぃに……」
悲しそうに見つめる啓太。
ごめんな、啓太。
「にぃに……泣かないで……」
悲しそうに呟く啓太の声が遠くなる。
何かを訴えるように啓太の唇は動いているのに、声が聞こえない。
「……い、か…………い」
その代わり、俺を呼ぶ誰かの声が啓太の声を消してしまう。
うるさい、黙ってくれ。
啓太の声が聞こえないじゃないか。
そう思っていると、啓太が悲しそうな顔をして背中を向けて走り去ってしまう。
「待ってくれ! 啓太!」
叫んで目を覚ますと、薄茶色の瞳が心配そうに俺を見下ろしていた。
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