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八節 おわかれのチョコチップクッキー
ーーside 小早川 梓
退職まで数日を切ったある日。デスクで書類を整理していると大きな影に声を掛けられた。
「よぉ、小早川センセー」
「七星先生」
七星歩夢ーー七星コーポレーションの御曹司だ。御曹司といっても親族経営の七星コーポレーションでは彼よりも偉い人がゴロゴロと転がっている。口と態度は悪いが成績は出すため、好き嫌いの分かれるタイプの人物像だと記憶している。私は嫌いだけれど。
「俺は今まで飲み会の幹事として散々アンタに避けられてきた。だが、改めて今回の送別会だけは来てもらいたい」
「えぇ? もうお断りしたはずでは?」
七星は毎回会社の飲み会に誘ってくるウザいタイプの幹事だった。断っても断っても律儀に誘ってくる。忘年会、新年会、打ち上げ......もうそんな時代ではないというのに、時代錯誤な男だと思う。だが、今日の七星は違った。
「今まで悪かった」
「え?」
「......俺なりに配慮が足りなかったって思ったんだよ。最後なんだから、その、まぁ、来て欲しい。その、ちゃんと小早川センセーのことも考えて用意してある」
そう言って七星は招待状のようなものを渡してきた。
“歩み寄ろうとしてくれる人とそうじゃない人の区別は自分でつけたら”
不意に緒方の言葉を思い出す。七星なんかは私が少食であると知ったら会費がもったいないとか折角の付き合いなのに空気を悪くするなとかそういう心無い言葉をまず一番最初に言いそうなタイプだと思っていた。
でも、自分で判断しなければ。
私は七星から封筒を受け取った。七星が実際に少食な私を馬鹿にするのか、しないのかはわからない。けれど、七星が私に歩み寄っているのは確かな事実のように見えた。
「行きます。参加、しますから」
そして七星にあるお願いをする。
「冴島さんに、改めて声掛けても大丈夫ですか?」
ーー
休憩室のロビーで、私は冴島先生を呼び出していた。歩み寄ろうとしてくれた人ーー冴島先生に向き合うために。
「先日は変に帰ってごめんなさい。あの、冴島先生。言ってなかったんですが、私、今月末でこの会社辞めるんです」
「知ってますよ。って、昨日事務の先輩から流れで聞いたんですけどね」
そう言った彼女は少しだけ気まずそうに笑った。彼女だって本当は私から聞きたかっただろう。けれど、私にとって退職は余りにもくだらない理由だった。だからこそ言い辛かった。
「私、冴島先生にもっと早くやめることを伝えるべきでした。お友達になろうとしてくれていたのに、それを弄ぶようなことをして。先日、緒方くんに私の至らなかったところを指摘されて、ショックで色々考え直したんです」
“話、聞いてもらえますか”と聞くと冴島先生は小さく頷いた。
「私は私個人をきちんと見てくれなかったある学校の先生にずっと失望していました。だから同じ先生と呼ばれる職業が嫌いだったんです」
「私はもう食べられないのに、全部食べなさいって。こういうの完食指導って言うんですよね。今ではもうしなくなってるところも多いそうですが、私の頃は残さずに食べることが正義だと言われていました」
あのときの傷がまだ疼く。”先生”は私にとって私を傷つけるものの象徴だった。
「でも、たまたまたまたま受かった就活先で流れで”先生”になってしまった。先生だなんて呼ばれなくなんてなかったのに。それでも仕事だったから”平らになるように”こなしたんです」
そうだ。感情の起伏で凸凹な態度をとらないように。感情を殺して。業務の無駄をなくして、情熱的になることもなく、平坦な日々を送るために日々を平らにした。
「やめたいやめたいって思いながら働いて、数年働いて契約を更新しない形でやっとやめられるって思ったんです」
けれど、緒方に言われたことで私が傷つかないためにとっていた態度が他の人を傷つけても構わないという暴力に近い態度だったことを知った。
「呼び名も立場も関係なかった」
他者を理解するためのコミュニケーションを放棄した時点で、私は私が嫌っていた”他者を理解しない人”になっていた。
「先生だからって完璧な訳じゃない。ううん、人は全然完璧じゃないから何も言わないで理解してくれる程、優しくもないんです。それなのに、私は理解されないことを他人のせいにして逃げてばかりだった。だから、話をしなくて、気持ちをわかろうとしなくて、ごめんなさい」
「小早川先生......」
冴島先生は私の方に近づいて、何もないところでこけた。
「きゃっ!」
私は咄嗟に手を伸ばして冴島先生を支える。すると、冴島先生はクスクスと笑った。
「あの、小早川先生。覚えてますか? 私と初めて話したときのこと」
「え? あ、はい」
冴島先生と話したのは動画投稿サイト用の広報動画を撮ってきたときだった。
「放送が終わって私が着ぐるみからこけて出たとき、先生おんなじように助けてくれました。その後、私と休憩室のチョコチップクッキーを食べて笑ったんですよ。先生、放送中は一回も笑わなかったのに」
そのときはてっきり中身がおじさんだと思っていたから、自分の予想の外れ具合もあって笑ったのだ。
「私、そのときに思ったんです。”この人は笑わない人なんじゃなくて仕事がこれっぽっちも楽しくない人なんだな”って。入社してすぐの私もそうでした。でも、私は緒方さんに変えてもらえた」
私に入社してすぐの冴島先生の印象はない。けれど、親族経営の七星コーポレーションで殆ど血縁のないギリギリ親族という立場があまり良いものではないことは少しだけ察しがつく。
「私、先生の笑った顔をもっと見てみたいって思いました。だから、私を幸せにしてくれた”食べること”で笑顔にしたかったんです」
失敗してしまいましたけど、と彼女は少し笑う。一緒に食事をすることが彼女にとって特別な意味を持つことに今なら気付ける。
「今から成功させてください」
「え?」
「送別会、私参加しないつもりだったんです。でも、行きます。よかったら冴島さんにも来てほしいです」
これが私の本心だ。私は冴島先生に手を差し出す。いつかやってもらった仕草だ。
「一人になりたくないからでも、食べきれない分を食べてほしいわけでもなくて。友人として新しい門出を祝ってほしいから」
ーー
「資格のナナホシ」では、月末の出勤日のあと、送別会となった。今月は更新月らしく私以外も何人かの先生が離職するらしい。開始時間まで少し余裕があるが、早めに会場に向かう。
「小早川先生! 見てください! ホテルで送別会するの初めてなんだって事務の先輩から聞きました」
「私、飲み会自体に参加したことほとんどないのですけど、ホテルでするものでしたっけ」
冴島さんに以前の話を聞いたときは4月の歓迎会は大広間に座敷と古式ゆかしい会で礼儀云々と散々だったらしい。今日は明確なドレスコードこそないもののホテルでの開催ということで、皆小洒落た格好になっていた。
「よぉ、小早川センセー......と、冴島。あっ、冴島は参加費半額払ってな」
これは幹事の七星歩夢だ。受付も彼がやっているらしい。送別会のため冴島さんだけがお金を払っていく。
この先、どんな量の食事が出たとしても、自分に自信を持って食べれるだけ食べれば良い。そう思って会場のドアを睨んだ。すると、七星歩夢が私の方を向いてニヤリと笑ったのが視界の端でわかる。
「今日はまぁ、楽しんでくれると嬉しい。俺も初めてなんだ。立食パーティー。ま、コイツが考えたんだけどよ」
そう言って歩夢は会場のスタッフらしき給仕服を着た人を小突いた。いくら乱雑な性格の七星歩夢でもお店の人にその態度はーーと思い非難の目を向けるとそのスタッフは顔を背ける。”照れんなよ”と七星歩夢に引っ張られたスタッフは、見覚えのある顔をしていた。
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