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六節 Re:アイスボックスクッキー
ーーside 小早川 梓
「というわけで私のお友達兼本日の先生をご紹介しますね!」
「......初めまして、緒方です」
どうしてこうなった、という顔を隠しきれない。しかし、それはこの講師役の学生も同じだろう。マナー研修事件から数日後の休日、冴島先生にお願いされて私はとあるアパートの305号室に来ることになっていた。聞けば冴島先生の部屋の隣の部屋だという。距離感の詰め方が少しおかしいのではないだろうか。
「緒方くんでしたっけ? あー、えっとお邪魔します」
「小早川先生ですね。お話はかねがね」
「今日は私が生徒ですから先生はちょっと」
「では、小早川さん。よろしくお願いします」
緒方は律儀そうな大学生だった。長身の彼はいわゆる料理男子らしい。3人ともエプロンをつけたところで冴島先生の掛け声で制作が開始される。
「じゃあ今から美味しいクッキーを作って食べましょう!」
”お食事は無理でもお菓子づくりなら一緒に出来ますよね?”と言われ、あろうことか来てしまった。先日食べた美味しいクッキーは彼の手作りだと言われ、少しだけ興味を持ってしまったのも事実だが、なんとなく、本当になんとなく冴島さんと過ごしてみたいと思ったのも事実である。
(もう、別に退職したら関係なんかないのに)
そう思う一方でどんな方法で距離を詰めようとしてくるのか純粋に興味もある。
緒方の講習のもと市松模様とぐるぐる柄のアイスボックスクッキー生地はすぐにできた。アイスボックスという名前の通り冷凍庫で凍らせて均等にスライスできるように生地を固めるらしい。
金太郎飴のようにカットしたらウサギや猫の形になるという長い生地もつくっていく。冴島先生が耳の潰れたウサギを作りかけたのちに、テキパキと潰れていない耳に修正していく緒方の手際の良さはこなれたものがあった。
「器用なものですね」
「でしょう!」
(どうしてここで冴島先生が得意げになるんだろう)
緒方がクッキー生地をラップに巻いて冷凍庫に入れている間、冴島先生がこの後の手順について説明してくれた。
「この日のために私、目とか鼻とかの飾り用のアラザンとかチョコチップとかを買って......あ。買ったのおうちに忘れてきたので取りに行ってきます!」
こういうちょっと抜けているところは冴島先生らしい。冴島先生が隣の自宅に材料を取りに行っている間、緒方が予想外の話題で話しかけてきた。
「冴島さんに七星コーポレーションを辞める話、もうされたんですか?」
「どこでそれを? いや、まだですけど」
社内でもなるべく話にならないようにしてもらっている。にもかかわらず、外部の学生が何故知っているのだろうか。
「ご自身で言われた方が良いですよ」
冴島先生に言えなかったのはいつも関わるたびにこの関係性が終わると思っていたからだ。悪意じゃない。いや、そう思っていることこそ悪いのかもしれないが。
「なんとなくタイミングがなかっただけです」
そんなことを話していると冴島先生からメッセージで連絡があった。材料に買い忘れがあったからスーパーまで買ってくるという。
「一旦休憩しましょうか」
冷凍庫にクッキーを入れ終えた緒方は私をテーブルの椅子に案内する。ひとまずゆっくりすることになった。よく知らない学生と2人で。
「コーヒーか紅茶、用意できますけど」
「じゃあ、コーヒーをいただきたいです」
このアパートーーリトルハッピー横尾305号室は不思議な空間だった。淹れたてのコーヒーが香る。隣の家の学生と知り合いだというのは、なかなかどうしてドラマのような話だと思った。自然と由来を聞いてしまう。
「冴島先生とはいつから?」
「GW前ぐらいから知り合って、それから料理を教えるお友達になりました」
「友達、ですか」
一緒にお菓子をつくるというのは2ヶ月程度とは思えない程の仲の良さを感じる。そもそも何があれば出会ってすぐに料理を教える仲になるのだろうか。いや、あの冴島先生の積極性ならそんなこと簡単にやってのけるかもしれない。そう、簡単に。
(私にはそんなこと出来ない)
「冴島先生、楽そうで良いなってたまに思います。明るくて、誰とも話せて、たくさん食べる。あぁいう子だと多少ミスしても周りから愛されるんでしょうね」
「......。」
緒方は少し雑にコーヒーを置いた。嫌味に聞こえたのだろうか。
「何か?」
「......。」
緒方は言うかいうまいか悩んだような顔をして、それからこう切り出した。
「その発言はあなたが一番嫌いなことなんじゃないかなって、思って意外で」
「え?」
私が一番嫌いなこと。それは食について口出しされることだ。とんだ見当違いーーこのときはそう思った。けれど。
「僕は一応今回の会にあたってまた聞きで小早川さんが少食なことと少食であることを他人にとやかく言われることが嫌いなことを知っています」
「そう......まぁ、そうですよね」
お菓子作りもつくったものを食べるという点で広義では食事だ。食に関するもので一緒に過ごしたいという冴島先生の意向と、人前で多くを食べたくないという私の意向の折衷案にこの学生は巻き込まれている。だから事情はある程度は共有されているだろう。
「だから、僕は僕なりに理由を推測しました」
長い前髪をしている緒方の表情は分かりにくく、何を思っているのかわからない。
「小早川さんの根本的な問題は”少食であることに関する他人からの勝手な決めつけや心ない態度や言葉”に辟易しているんじゃないかと思っています」
確かにそうだ。小学校の先生は私が何故食べられないかの事情を聞いたりせずに一方的に「一人前を食べられない手のかかる子」のレッテルを貼り付けた。部活の先輩は少食アピールで嘘だと決めつけた。婚活の男も! 同僚も! 思い出すたびに腹が立つ。
「ええそうです! 少食みたいに見せる女よりモリモリ食べる女の方が好きとか! 残すと気分が悪いとか! 一方的に言われるのももう疲れたんです!」
「勘違いしないで。怒らせたいわけじゃない」
ついカッとなってしまったが、緒方に今までの鬱憤をぶつけるのが間違っているのはまだ理性でわかる。落ち着こうとコーヒーカップを握ったとき、緒方から言われた言葉に身がこわばった。
「だから、他人に対しては遠慮なく決めつけをする姿が予想外だなって」
「!」
緒方は静かに、だけれどもハッキリと言った。
「冴島さんは決して楽をしてないから。絶対に本人の前で言わないでください」
それは完全に私の言葉を否定したがっていた。何も、何も知らない学生なのに。
(何それ)
「いいえ、明るくて笑えてコミュ力があって言いたいことがハッキリ言える人は楽ですよ! そういう人は私みたいに見下されないから自分の意見をハッキリ言えて良いなっていつも思っています!」
「だったら、あなたも言い返せば良かったのに」
その緒方の言葉はあまりに残酷で無神経だ。私はいつだって我慢してきた。いや。
「そんなこと出来なかった!」
今までの人たちになにを言われても私は黙ってきた。それは自分自身に問題があると思っているから。
「できないことは情けないことだから。私が他の人が出来ていることができないのは劣っているからなのに、それを当然のことのように開き直るなんて絶対に無理!」
「劣っていると一番自分を見下しているのは小早川さん自身じゃないんですか」
それは今までの私にない発想だった。
「人の平均よりも食べられないことに特に問題なんてない。むしろ食費が浮いて楽になるし、少ない量で他人並みに動けるのは誇ったっていい」
デメリットしかみないようにしているのはーー私自身。そんなことは、そんなことはない。だっていっぱい悩んできた。
「それでも少食であることの悩みを小早川さんが相手にわかって欲しいなら小早川さんから言葉を掛けるべきだし、相手がその価値すらないあなたを攻撃したいだけの相手なら言わせておけばいいーー」
「そ......れは」
「もし反論したくてもこれからは言い返せる。だって見ず知らずの僕に言えたんだから。だから、歩み寄ってくれる人とそうじゃない人との区別ぐらい自分でつけたら」
緒方はどこまでも淡々と言葉を吐いた。私になんて興味がないという風に。そう、どうせ緒方と私は関係のない人だ。いっぱいご飯が食べられる冴島先生が善意で紹介してくれてーーあれ? 冴島先生が人前でご飯を食べられない私のために善意で用意してくれてーー?
(”どうせ”って私はあれだけ過去の私が欲しかった少食を理解してくれそうな人を拒絶してる??)
冴島先生が帰ってきた。
「おまたせしました〜。あれ? どうかしました?」
「なんでもない......焼こうか」
緒方は冷凍していたクッキーを切ってアラザンやチップを並べる。私は言われたことを思い返しながら、ただただ呆然とクッキーを焼いた。
(見下していたのは、勝手に”みんなが”わかってくれないと周りにレッテルを貼っていたのは......私自身?)
それは私が見たくない私の現実の一つだった。
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