【短編】理想のアイドル―苦手な後輩と無人島脱出することになりました―

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 目が覚めた時、まず真っ青な空の色が視界に飛び込んできた。  強く照りつける太陽の光が眩しい。  顔をしかめながらあたりを見回す。  白い砂浜。遠くにいくほどエメラルドグリーンになる透き通った海。  そして、なぜかそばで俺の背中を腕で支えている謎の超絶イケメン。  怒ってるみたいにきりっと上がった凛々しい眉、平行二重の意志の強そうな目、通った鼻筋にシュッとした顎……。  この顔、見覚えがあるような無いような。  誰だっけ……?  ぼんやりする意識の中で、まるで王子様みたいなそのイケメンが、何やら囁いてくる。 「……兎原(うはら)さん。俺たち、どうやら遭難したみたいですよ」  遭難。  ――その言葉に反応して、茶色い俺のうさぎの耳がぴょんと跳ねた。  そうだ、こいつは、同じ事務所の獣人アイドルグループ、『ウルフ』の大神(おおがみ)俊(しゅん)。  俺、南の島にロケに来たんだった――。  人類の一割を獣人が占めている現代。  獣人は基本的に獣の姿を隠して暮らしていて、人間に近い姿で世の中に馴染んでいる。  耳や尻尾の痕跡を完全に消して、獣人であることを悟らせないように生きている者もいれば、逆に、ヒトをちょっと逸脱したルックスや身体能力を生かし、芸能人になったり、スポーツ選手になって活躍する獣人もいる。  この俺、兎原(うはら)陸斗(りくと)も、後者の一人だ。  俺が、ウサギ獣人の可愛さが売りのアイドルグループ・バニーボーイズとしてデビューしたのは、花の17歳の頃。  断っておくが、余りにもダサい……というかバニーガールを彷彿とさせるネーミングは、事務所社長の趣味だ。  聞いた瞬間、俺も「どうなの」と思ったもん。  そんな俺の感想はともかく、12歳で履歴書を送った時から、デビューするまでに5年。  大手男性獣人アイドル事務所で下積みを経験し、同期三人(みんなウサギ獣人だ)とデビューの切符を手に入れ、地道に活動して更に15年、気付いたらアラサーになっていたけど、これまでの道のりは平坦じゃあなかった。  CD低迷期も重なり、あまりにも売れないデビュー曲。……規模は小さいのに全く埋まらないコンサート会場。やっと持たせてもらえた地方局の冠番組は視聴率低迷で打ち切り……。  そもそも、ウサギって犬猫に比べるとそれほど人気ねぇんだよな。  肉食獣人のオラオラ系アイドルにも負けるし。  それでも俺たち三人は手を尽くして頑張った。  若い頃は、バニーボーイさながらの恥ずかしい露出度高めの衣装でCDの手売りをしたこともある。  社長を巻き込んで知恵を絞ったコンサート演出、体を張り、プライドも売り飛ばしたお笑い番組進出……。  そのお陰で、どうにか知名度だけは上がり、メンバーの一人がドラマに出たことをきっかけにちょっと人気が出始め、徐々に歌番組にも出演出来るようになった。  すると曲もそこそこ売れるようになり、発売日にはオリコンの割と良いところまで行くようになってたんだ。  夢の関東ドームでのコンサートまで、あと一歩。  そう思っていた矢先だ、バニーボーイズに悲劇が起こったのは。  不動のセンター、正統派王子系アイドル、宇佐美(うさみ)光(ひかる)の結婚と電撃引退。  ネザーランドドワーフの彼は、千葉で人参農家をやるのが実は夢だったとか急に言い出して、幼馴染の人参農園の一般女性とゴールインしてしまった。  知ってるか? 千葉県って、北海道に次いで人参の出荷量全国二位なんだぜ。いやー、俺知らなかったわ。  いやいや、そんなことはどうでもいい。  その直後、宇佐美の退所で将来を悲観したもう一人のメンバー、誰からも愛されるウサギ天使と謳われた可愛さの未羽(みわ)愛彦(まなひこ)の、衝撃のグループ脱退宣言。  ホーランドロップの彼は、本場のエンターテイメントを勉強する為アメリカに留学すると言い出し、今や毎日英会話教室に通っている。  つまりバニーボーイズは、はっきりとした解散宣言もないまま、いつの間にか名ばかりのリーダー、兎原(うはら)陸斗(りくと)一人になっていたのだった。  一人残ってしまった俺のスペックは、アイドルとしてはかなり微妙だった。  年はアラサーと言っても、もう32。  身長は175センチで、特別高くはないが低くもない。  体重は65キロ……最近ジムで身体を追い込んで鍛えてるから、ほぼ筋肉の重みだ。  ダンスはセンターだった宇佐美には負けるが、標準的なレベル。  歌は一番褒められてたけど、声にあまり華がないというか、曲の中では他二人の下支え的な役割だった。正直、ソロは厳しい気がする。  キャラクター的には三枚目という評価だ。  『笑顔が親しみやすい』、『実は歌が上手い』、『優しそう』、『何故か一度も熱愛スキャンダルが無い』、『地元にいそう。ていうか似てるヤンキーの人この前見た』、『兎なのによく見ると筋肉が結構ヤバい』、『首から下ゴリラ感あるのにウサ耳ついてて違和感』、などがSNSでの俺の評判だ。  ちなみに、うさぎになった時の姿は……ちょっと肉付きのいい、素朴な茶色いアナウサギになる。  似てるヤンキーの人この前見た、というのは、デビュー直後、他の二人とキャラが被らないようにもっと尖ったイメージに寄せていたからだと思う。髪はロングウルフだったし、兎耳にはピアスをして、ヤンキー感を押し出した見た目だった。  今はもっぱらお茶の間向きの、アッシュに染めてミックスパーマをかけた爽やかなツーブロックショートなんだが、急に可愛くなったとか、若返ったとか、言われたい放題だ。  ドラマに出るときは主人公の気のいい友人役とかが多くて、主役を演じたのは過去一度くらいしかない。  トーク力も可もなく不可もなく、他人のいじりができるとかの、MCになれるほどの器はない。  ……こんな、芸能人としてはっきりしたウリのない俺が一番大事にしてたのは……やっぱり毎年のコンサートで、バニーボーイズとしての活動だった。  もうそれも出来なくなっちまったけど。 「――元気出してよ、りっ君。社長もさあ、これから舞台とか、こういうバラエティとか? ピンで出来る仕事いっぱいとってきてあげて、って言ってたし。俺も頑張るからさー」  なんて言ってくれた長年の付き合いの男性チーフマネージャーも、社長も、バニーボーイズがこんなことになって怒ってた割には、俺のことを気遣ってくれて。  それで、何とか気を取り直して新しい仕事にチャレンジすることにしたんだ。  俺にとって、解散以来初めての仕事。  それは、無人島の冒険にチャレンジするという、アウトドアなバラエティ番組の出演だった。  本当は歌の仕事がしたいけど、新規の仕事が来るだけマシで、贅沢は言ってられねえよな。  ディレクターさんとの打ち合わせによると、挑戦者はお笑い芸人から有名動画配信者、アイドルまで、幅広い業界から選ばれる。  場所として選定されるのは、海上タクシーで比較的行きやすく、地権者の許可を得るのが容易な無人島だ。  目的は、どうにかしてその無人島を脱出し、目の前に既に見えてる、数キロ先の有人島に辿り着くこと。  その、上陸から脱出までのタイムを出演者同士で競うことになっている。  俺たちに許されるのは、水や食糧を含まないリュック一つ分の荷物のみ――という設定だ。  ガチのサバイバル用品と一緒に、ウケを狙って「水晶玉」とか「地元の名産品」とか、全く役に立たないものを持ってくる人もいる……いや、むしろそれが番組的には必須となっている。  俺も御多分に洩れず、うさぎ用のトイレ砂を持参した。  まあ、そんなおふざけが出来るのも、スタッフさんによる入念な事前のロケハンや、仕込みがあるからなんだけど。  加えていつでもリタイヤは可能だし、俺たち出演者に一切の危険はない……はずだった。  足掛け一泊二日で、釣りをしたり、火を起こしたり。  無人島らしいことをして見せつつも、自分が今度出させてもらう舞台の宣伝を織りまぜたり、意味もなく上半身裸になってジムとダンスで鍛えた体を披露したりしつつ、ロケは滞りなく進んでいた。  番組のクライマックスは、自作の筏(いかだ)に乗って脱出するシーンだ。  自作と言っても、たった一日、しかも自分の力だけで筏を作るなんて、出来るわけがない。  ロケハンスタッフさん達が事前に浜辺に切り出しておいてくれた適当な長さ・太さの竹材を、カメラのフレームの外でADさんに手伝ってもらいつつ、ロープで縛る。  それを何故か都合よく(?)浜辺で見つかる大きな発泡スチロール材と組み合わせ、筏の完成。  テレビ番組になった時には、あたかも俺一人で頑張って作ったかのような感じで放映されるって訳だけど、まあバラエティなんてそんなもんだ。  台本だってあるしな。内緒だけど。  ――という訳で、俺は計画通り、ついに筏で海にこぎ出た。  一度海に出たら、後はもう誰かに手伝ってもらう訳にはいかない。  ベニヤ板と竹竿で作ったオールは、推進力が泣けるほど弱いし、そもそも筏は形状的に、浮かぶことは出来ても、進むことには全く適していなかった。  漕ぎ始めは昼過ぎだったのに、すぐに太陽が傾き、湿っぽい風が吹き出した。  空が分厚い雲で覆われ始め、その内に波が高くなってきて、筏の上に座っているだけでも一苦労。  ――今思えば、本当ならロケを休止してもいいような天候になっていたと思う。  漂流発泡スチロールと竹材を組み合わせた余りにも貧弱な筏は、まさに風前の灯状態。  辺りが恐ろしいほど暗くなり、近くの小型船舶に乗った撮影スタッフさん達からまぶしいライトで照らされつつ、俺は必死でオールを漕いだ。  筏に取り付けられた水濡れOKの小型のウェアラブル・カメラに表情を撮られながら、疲れでだんだん気が遠くなってくる。  筏は驚くぐらい遅々として進まないし、両腕には疲労物質が溜まり、痺れていた。  足掛け二日のロケの疲れ、それに容赦ない船酔いも手伝って、もう気力だけで漕いでいる状態だ。  そろそろリタイヤしたい……。  そんな弱音を何度も呑み込む俺に、更に追い討ちを掛けたのは、後ろから迫ってくるライバルだった。  ――島の反対側で同時にロケをしていた、もう一人の出演者。  その男は、今をときめく人気上昇中のアイドルグループ「ウルフ」の、大神俊だった。  一応同じ事務所の後輩にあたる、23歳。  大神君は、日本では珍しい狼の獣人だ。  その経歴は、狼獣人ということを抜きにしても、日本のアイドルとしては特殊かも知れない。  出身が韓国で、名乗ってるのは日本人の母親の姓だという。  身長は185センチ。  八頭身超えで、どこからいつ撮られてもバランスのいい逆三角形の体型、写真加工なんか必要ない長い脚、モデルばりの無敵のプロポーション。  顔立ちはこれまた、整形が噂されるぐらい恐ろしく整っている。白くきめの整った肌、男らしい眉尻の上がった太い眉に、平行二重のアーモンド型の瞳、くっきりとした涙袋、完璧なEラインを形成する鼻筋と、筆で描いたんじゃないかと思うほど境目のハッキリした唇。  ミリ単位で隙のない、完璧な目鼻立ちをしていて、生きてる人間というよりまるで絵画だ。  ただし彼は、全然笑わないし、滅多に喋らない。  歌番組に出ても、司会者とのやりとりで愛想良く受け答えしてるのは5人いるウルフのメンバーの他の4人だけ。  たまに喋っても「はい」とか「頑張ります」とか必要最低限の真面目な受け答えだけで、下手するとバックダンサーかマネージャーかと思うぐらい空気。  ――ところが、曲に入っていったん踊って歌い出すと、歌もダンスも異次元レベルで上手い。  声にも引き込まれるようなツヤと響きがあるし、その上、ステージで魅せる表情から溢れ出る男の色気が凄まじくて、その場の観衆の目を全部一人で攫っていく。  日本の事務所に入る前は、10代前半から韓国の大手事務所が運営する養成所に所属して、とんでもなく鍛えられていたらしい。  あっちでデビュー寸前まで行ったけど、何故か寸前で辞退して兵役に行き、満期除隊まで勤め上げたタイミングで、うちの変人社長が口説き落として来日したとか。  韓国でずっと頑張ってれば、いいカンジのグループかソロでデビューして、もしかしたら今頃全米ヒットチャートに入ってたかもしれないぐらいの逸材……なんだろうけど、正直俺は、メチャクチャ大神君のことが苦手だった。  だって、芸能人の必須項目の挨拶も満足にしてこねぇし。現場や移動が被っても不気味なぐらい喋らないから気まずいし。  しかも、たまに目が合った時なんて、物凄い眼光で睨まれるし……完全に狼に狙われた子うさぎの気分になって、ガクガク震えが止まらなかった。  そんなかなり苦手な後輩が、俺の筏をすごい勢いで追ってきたんだ――夜の海で。  その異様に目力のあるでかい瞳だけが、闇の中で照明さんの放つ光をギラギラ反射して、上半身裸のゴリゴリにマッチョなシルエットも相まって、まるでターミネーターだ。  加えて、後ろを振り向くと、ヤツの筏は、俺のとは比べ物にならないほどしっかりした作りでビックリした。  俺のなんか殆どADさんの作品だけど、絶対あいつ、ガチで自分で作ったに違いない。  それで無人島からの出港自体は俺より何時間も遅れたけど、桁違いの基礎体力でここまで巻き返してきたのだ。  背後から追われることへの本能的な恐怖が焦りに変わり、俺は泣きそうになるほどビビりながら必死になって筏を漕いだ。  それでもどんどん迫ってくる肉食獣の大神君。  さらに運の悪いことに、そこへちょうど雨が降り出した。  身体がずぶ濡れになって冷え、視界も悪くなる。  なんでロケを中止しないんだと船舶の方を見ると、同事務所の先輩後輩対決が番組的によっぽどいい[[rb:画 > え]]らしく、カメラマンさんも他のスタッフさんも、船舶の片側に寄って俺たちの戦いを夢中になって撮っていた。  その内に風も強くなり、どんどん筏が流され、漕いでもほぼ意味がないぐらいになってきて。  流石にもう危ないから撮影ストップします――やっとそんな声がかかった、その時だった。  ――予想だにしていなかった異変が起きた。  ひときわ高い三角波が突然立ち、筏の近くにピッタリ迫っていたスタッフさん達の乗る小型船舶の横腹にぶつかったのだ。  当然船は大波で大きく揺さぶられ、一瞬の内に転覆した。  乗っていた人たちは悲鳴をあげる間もなく海に投げ出され……。  俺も同じ波の煽りを食らい、筏からまるで宙を飛ぶみたいに、真っ暗な海に激しく投げ出された。  光が失われると、月も星もない夜の海は絶望的な闇に包まれ、何も見えなくなる。  海中に飲み込まれても、どっちが上で、どっちが下かも分からなくなり、俺はパニックに陥った。  もがいているうちに、衣装の下に着込んでいたライフジャケットのお陰か、どうにか海面に浮かんできて……九死に一生は得たものの、気付けば他の皆のいる場所からは大分遠い場所に流されていた。  大声で呼んだけど、海に投げ出されたスタッフさんもみんな混乱状態で、俺の方に構ってる余裕なんて一切ない。  結局俺に出来たのは、壊れた筏の残骸に掴まることだけ。  これは……俺、本当に死ぬかもしれない。  効率の悪いオールを漕ぎ続けた両手はもう力が入らないし、野外ロケの疲れが限界に達していて、真っ暗な荒波の中を泳ぐ気力も体力もない。  そもそも俺、犬かきしか出来ないし。  みんな知らないと思うけど、ウサギって犬かきで泳ぐんだぜ……。  助けを待つ以外にどうすることもできないまま、だんだん意識が薄れていく。  明日になったら、このこと、ネットニュースに載るんだろうなぁ。  俺の名前がトレンド入りしたりして……こんなネタでは入ってほしくなかった……。  そんなことが頭に浮かびながら、疲労の波に意識が攫われ――いつの間にか記憶が途切れていたのだった。  ――そして冒頭の事態に戻る訳だけど。  目が覚めて、ちゃんと陸にいることにびっくりして、そしてそばに大神君がいることにギョッとした。 「お、大神君……こ……ここ、どこ!? み、みんなは!?」  喉が掠れ、うまく声が出ない。  白い砂浜の上に足を投げ出して座ったまま、改めてぐるりと辺りを見回した。  綺麗な青緑色の海と、入道雲に切り取られた青空。  降り注ぐ太陽の光は白っぽくて、そこまで強くない。  気温はこの辺りにしては低めだ。  今、朝なんだろうか……?  筋肉痛なのかなんなのか分からないが、身体中がギシギシ痛むから、死んで天国に来たんじゃなさそうだ。  こんな状況なのに、俺の横に跪いている大神君は酷く冷静に見える。  ……というか、むしろいつもとあまり変わりない。  長めの前髪をサイド分けのコンマヘアにした(といっても、今はヘアセットどころじゃないのでほぼオールバック状態だが)、黒に近いダークブルーに染めた艶やかなショート。  髪が濡れてるせいか、頭の上の、白っぽい毛が内側に生えた灰色の三角耳が目立つ。  相変わらず脳がバグるほど完璧な冷たい美貌と、海パン一枚のせいで、ボディービル大会にでも来たんじゃないかと思ってしまうような超絶な肉体美。  何気なく自分の身体を見下ろすと、俺まで衣装の下に着てた海パン以外ほぼ裸に剥かれていた。 「……服!? ない……!」  着ていたはずの、ライフジャケットと、大きめのTシャツとジャージのハーフパンツがない。  服は番組のコーディネーターさんが借りてきた高いブランドものだ。なくしたらヤバい。  キョロキョロしていると、大神君が無表情で俺の後ろを指差した。 「濡れた服は絞ってあっちに干してます」  ハッとして後ろを向く。  確かに――背後で群生しているマングローブ林の、地表にあらわになった根っこに、ライフジャケットと、無残なヨレヨレシワシワになったTシャツ、ハーフパンツとレギンスがぶら下がっていた。  どんだけの馬鹿力で絞ったらあんな事になるんだ……? 「あ、有難う……? てか、大神君が俺を助けてくれたのか……?」  まだ冷静にはなれない頭で辛うじて礼を言う。  だが大神君が返してきたのは、一番最初の俺の疑問に対する返事だった。 「ここ、無人島みたいです。俺たちがロケしたとことは別の」 「え……エエッ!?」 「兎原さんが波に流されてくから、筏で追っかけてる内に、沖の方に出てしまって。ようやく兎原さんの身体を拾った時には、この島しか周りに見当たらなかったので、上陸しました」  まるで、「近所に買い物に行ったら、新しい店が出来ていたので寄りました」ぐらいのことを報告するような淡々とした口調で大神君は言った。  な、なんてこった……。  そんなに仲良くもない後輩に命を助けられた上に、巻き添えで遭難させてしまうなんて。  先輩としてあるまじき大失態だ。 「ごめん、本当に……。俺のことなんて放っておけば、一緒に遭難なんてしなかったろうに」 「……放っておいた方がよかったんですか」  無愛想な口調で聞き返されて焦った。 「いやいや! 助けてくれて本当に良かったよ! マジで有難う」  やばい、二人きりなのに既に会話が噛み合ってねぇ。  とはいえ、俺一人だったら生きてたとしても絶望してただろうから、たとえ苦手な後輩でも、誰かがそばにいてくれるのは死ぬほど有り難かった。 「どうしよう……。ここ、どこだかも分からないんだよな? 自力で帰るのは、無理だよな……」  俺が頭を抱えていると、大神君がぼそりと喋った。 「俺の筏はあっちにあります。有人島の方向も、太陽の位置関係から何となくは分かります。でもここは潮の流れも強いし、リスクを考えると救助を待ってた方がいいです。日本の海上保安庁のレベルは高いので救助はすぐ来ると思います」 「……そっか……」  ホッとすると共に、こんなに長い文章で喋っている大神君を初めて見たので新鮮だった。  動揺してないし、助けてくれたし……こんな頼もしい男だったんだなぁ。  仕事ぶりは凄い真面目だし、元々根はそんなに悪い奴じゃあないってこと、薄々は知ってたけど……見直した。  狼ってだけで、意味もなく怖がってたのかも。 「ていうか、大神君、筏、無事だったんだ?」 「……。筏も荷物も一応あります。リュックを背負ったまま漕いでたんで」  え、凄い。これが俺には失われた現役のアイドル力(りょく)なのか……?  大神君の背景に後光が差して見え始めたところで、彼は俺を置いてスタスタと浜辺を歩き出した。  ギョッとして立ち上がり、慌てて後を追いかける。 「ど、どこ行くの!?」 「……荷物を取りに」  振り返った顔が怒ってるように見えてドキッとした。いや、地顔がこれなんだよな。  はぐれるのが怖いけど、近づいていくのもまだ結構怖い……まさにヤマアラシのジレンマだ。  それでもトボトボと後をついて歩いていると、太陽にジリジリ焼かれて、喉がはりつくように渇いていることに気付いた。  うっ……。  そういえば、昨日の夜から何も食ってないし、飲んでない。 「水、探さなきゃな……」  思わず呻いた俺に、こともなげに大神君が言い放った。 「水ならあります」 「え!? 水、持ってるの!? マジで!?」  大神君はこくんと頷き、浜辺に壁を作るようにたくさん生えたメヒルギの木の方に俺を手招きした。  フラつきながらどうにか追いかけると、木陰になったそこに、かなりでかくて上下の長いリュックサックが置かれている。  大神君はその中からでかい水筒のようなものを取り出し、蓋を外して俺に差し出した。  無意識に奪い取るようにしてそれを受け取り、一気に飲み干す。  渇きが満たされ、ふーっと一息ついて落ち着いてから疑問が浮かんだ。  ……番組的に水は持ってきちゃいけないルールだった筈だけど、何で大神君はこれを持ってるんだろう。 「水、本当に有難う。大神君、この水筒、こっそり持ってきてたのか……?」 「いえ……。これは水筒じゃなく、英国の陸軍が採用してる携帯用の浄水器です。ポンプ式で、塩は無理だけど、微生物も細菌もウイルスも除去するっていう……これで浄水すればトイレの水でも飲めます」  その言葉で、俺と大神君の間にピシャーンと雷のような衝撃が落ちた。 「と、トイレ……。……ハッ、ま、まさかこの水の出所は……っ、おしっ……」 「……? 北側の岩だらけの場所に、湧き水が滝になって落ちてる場所があったんでそこで汲みました」  一気に身体中の力が抜ける。  それ結構大事なことだから、浄水ボトルの機能の宣伝の前に教えて欲しかった……。  と思わないでもないが、大神君のその言葉はかなりの朗報だった。  真水がある……!  ――ってことは、水が飲めなくて数日で死ぬっていう目には遭わないってことだ。  更に言えば、俺は草食の獣人。  普段は人間として暮らしてるけど、完全にアナウサギの姿になることも出来る。  兎の身体なら最悪、草や木の皮、枯葉を食べて生き延びるっていう選択肢もあるんだ。  どうしても人間としての意識はあるから、そこまで美味いとは感じないし、野外に生えてるのを洗いもしないで食うってのは、ちょっと抵抗あるけどな……。 「今持ってるものはこれだけです」  大神君が、リュックから色々取り出して見せてくれた。  青い大きな袋に入ったもの、調理道具、サバイバルナイフ、組み立て式の釣竿、寝袋……コンパクトに詰められてるけど明らかに凄い重量だし、ウケ狙いの要素など一ミリもない。  俺なんか、絶対何か面白いもの持ってきてくださいねって無茶振りされたのに、これがキャラの違いってやつか。  肩を落としてたところに、最後にちゃんとバックライトの点灯してるスマホが出てきて、思わず喜んだ。 「やったー! それで118番に電話して、助けを呼ぼう!」 「……ここ圏外ですけど」  淡々と言われて、ガクーンと両手で地面に突っ伏す。 「……圏外なら、仕方ないね……とにかくここで待とう……」  ……冷静にスマホの電源を消してる動じなさすぎる大神君の横で、改めて長期戦を覚悟することになった俺だった。 「――とりあえず、水があればある程度は救助を待ってられそうだけど……。そういや大神君、スケジュール大丈夫? ウルフ、新曲出したばっかだし、忙しかったんじゃ……」  ふと思い出してそう尋ねると、大神君は荷物を整理しながら平然と頷いた。 「本当は、今日のNステに出るはずでしたね。今日の朝には東京に帰れるはずだったんで」 「!? ヤバいじゃん!? 生放送だろ!? もうリハーサルが始まってるよな」 「俺たちのグループのリハは夕方からなんで……まあ、どっちにしろもう間に合わないです」  そんな……。  強い罪悪感が再び俺の両肩にズンとのしかかった。  グループが解散し、アイドルとしてはほぼ終わってる俺は、スケジュールも白紙になってしまったものが多くて、この仕事の後は数日オフの予定だった。  でも大神君はまだ、デビューして一年未満だ。  しかもウルフは、大神君を始め、プロのダンサーも顔負けのダンスと、鍛え抜かれた歌唱力の実力派グループ。  そこに、世界的に有名な振付師と、Kポップの敏腕プロデューサー作曲・編曲による最先端のダンス・ポップが組み合わさって、圧倒的なパフォーマンスを生み出している。  MVの動画再生回数も桁違いに伸びてる最中で、やっと世界も目指せる獣人アイドルグループを作れたと、社長も興奮気味だった。  なのに、その大事な時にロートルうさぎの俺が足を引っ張ってしまうなんて……。 「本当にごめん……俺が筏から落ちなければ……」  再び土下座モードに入った俺を、大神君は華麗にスルーした。 「……別にウルフは俺だけじゃないし、どうでもいいです」  その一言が、ものすごく胸に刺さった。  若さと実力と環境と、華のある容姿に恵まれて、それなのに「どうでもいい」?  俺なんて、続けたくても続けられなかったし、出たくてももう、Nステになんか絶対出られないのに。 「大神君、それって」  思わず一言言いそうになってしまった俺の声に、相手の言葉が被った。 「――そんなことより、テント出すんで手伝ってください。地面に直で寝るとフナムシや鼠に噛まれるんで」 「ひっ! 分かった!」  そ、そうだよな。  今は仕事以前にまず、命の安全が優先だよな……。  反省していると、大きな袋を渡された。  見た目より重い。1.5キロってところだろうか。 「これ、テント? 自分で持ってきたの」 「野外でサバイバルを競う番組なら、持ってくるのは当たり前かと」  いや、……俺が持ってきたのはウケ狙いのトイレ砂だったけど。  いろんなことをスタッフさんに頼りきりだった自分がちょっと申し訳ない気持ちになりながら、袋を持って浜辺の方に行こうとしたら、止められた。 「浜に張るのは、海が近すぎて満潮の時に浸水します」  ――そりゃ大変だ。 「奥の木と木の間に少しスペースがあります。雨風を枝葉が多少遮ってくれそうです」  残りの荷物を担いだ大神君の逆三角形の背中が、林の中に入っていく。  葉の密生したマングローブ林の中に入ると、太陽の光が遮られて急に薄暗くなり、不気味な雰囲気になった。 「うわぁ……ここで寝るのか……」  地面が木の根っこでゴツゴツして、横になるのもかなり厳しそうな場所だ。  かといって、砂浜だと波に流されちゃうし。  固唾を飲む俺から大神君がテントの袋を奪い取る。  中を開けると、バラバラの部品が出てきた。  ジョイント式のポールを半分に分けてそれぞれで組み立ててゆく。  見様見真似で作業をしながら、俺は黙々とテントを作る大神君の顔をちらりと盗み見た。  前髪の落ちかかる男らしい凛々しい眉と、睫毛の長い平行二重の瞳、すっきりと高い鼻梁、セクシーな唇。  その唇が溜息をつくように僅かに開き、鋭い牙が覗いてゾクリとした。  人間ではあり得ないほどに尖った犬歯。  『ウルフ』の魅力は、純粋な人間とは違う五人の独特の存在感と、メインボーカルの大神君の野性味のある低い声にある。  ウルフは自分だけじゃないと言うけど、世間は全くそう思ってないと思うぜ、大神君……。  なんて、先輩ヅラして言える立場じゃあねぇけどな……。  そもそも、ここでも何度も助けられてばっかりだし。  テキパキと半自立式のテントを組み立てていく大神君は、男の俺の目から見てもめちゃくちゃカッコ良かった。  さっきの余裕な発言は、才能さえあれば、多少遠回りしようが後からいくらでも挽回出来る、っていう自信から来るものなのかもしれない。  羨ましいぜ……。  なんて、感心してるうちにこじんまりした一人用テントが完成して、大神君が入り口のジッパーを開け、リュックを中に放った。 「俺は魚釣ってくるので、兎原さんは中で休んでてください。腹が空いて我慢できなかったら、そこの浜辺に生えてる短い草……浜ほうれん草って言って、人間でも食える草なんで、少しだけなら食べていいです。でも、シュウ酸が強いから、あんまり生で食い過ぎないように」 「そ、そうなんだ……ありがとう……」  礼を言ったけど、大神君は無反応のまま、リュックから釣り道具を出してさっさとマングローブの林の向こうへと歩いて行ってしまった。  一人になり、俺はぴょこんと頭の上の兎の耳を立てた。  こうすると、少しずつ遠ざかる足音がよく聞こえる。  落ち着いた歩き方だ。彼が冷静なのが音でよく分かる……。  ……そもそもどうして彼はこんなにサバイバルに強いんだろう。  多分軍隊経験なんだろうなぁ。  見た目も良くて、男らしくて頼りになるとか……無愛想さを補って余りありすぎる。  ……って、俺すでに大神くんの一ファンになりかけてるな……?  現金すぎるけど、命の恩人だし、仕方ないよな。  ……思ってたより怖い奴じゃなさそうだし、これをいい機会に色々話してみようか。  どんな生い立ちなのかとか、なんで芸能人を目指したのかとか……聞いてみたいな。  そう考えて、自分でも不思議なくらい大神君のことで頭がいっぱいなことに気が付いた。  こんな非常事態なのに。  誰かのファンになる時って、そういやこんな感じだったな……。  俺はすーっと大きく息を吸った。  次に大きく吐き出して、自分の姿を少しずつ変えていく。  小さく、小さく……指は短くなり、全体的に丸っこくなった身体に茶色い毛が生えて、耳はそのまま――俺の獣の姿に。  おっさんに片足突っ込んだくたびれたアイドルから、どこにでもいる平凡な褐色のウサギになって、俺はテントをピョンと飛び出した。  マングローブ林の入り組んだ根の上をピョコピョコ飛び越え、浜の方へ出ると、たしかに地面を這うようにして青々とした草が生えている。  フンフン匂いを嗅いでみたけど、なるほど毒草ではなさそうだ。  いただきます……!!  噛み付くと、独特の塩気と渋みがある。  うーん、やっぱり身体に悪そうだなぁ……。  言われた通りちょっとだけ食べて、終わりにした。  ああ、腹減ったな……。  それに日の当たるところにいると、高くなってきた太陽にジリジリあっためられて、頭がグラグラしてくる。  この姿だと汗をかかないから、体温調節が凄く難しいんだ。  うさぎの身体はマジで南国には向いてない。  すぐ熱中症になっちまう。  日陰に入らなきゃ……。  うさダッシュでテントの方へ戻っていく。  中に飛び込んで箱座りして、じぃっとあたりの音に耳を澄ませた。  サワサワ……と風で葉が擦れる音。  天気がいいし、海も綺麗だし、遭難じゃなくて休暇でキャンプに来たんなら、良かったのになぁ。  出入り口のメッシュの生地を通して入ってくる爽やかな風に吹かれていたら、ようやく体が冷えてきた。  快適になるにつれ、……目を開けたまま半分脳みそが寝てたらしい。  大神君の足音が近づいてくるのが聞こえて、ハッと目が覚めた。  ヤバいヤバい、大神君は頑張ってくれてるのに、俺、呑気にお昼寝しちゃったぜ。  お帰りー、と言おうとして、ぷぅ、という鼻を鳴らしたような音しか出なくてハッとした。  おっと俺、今ウサギだ。  人間に戻る暇もなく、大神君が入り口のジッパーを開けて中を覗き込んできた。 「……兎原さん?」  俺。俺だよー。  というのを、鼻ヒクヒクと丸くて黒いウサギの目で訴えた。 「ああ、その耳の色……。兎原さんだ」  ウンの代わりに前足を上げた直立で答え、そのままピョンとテントの外に出た。  もう乾いたのか、大神君はTシャツとハーフパンツをちゃんと身につけていて、銀色の魚を数匹入れたビニール袋を片手に、もう片方には芭蕉扇のような大きく広がった葉っぱを複数枚持っている。 「これ、お土産……パパイヤの木が見つかったから、葉っぱです」  言われる前から、俺は早速差し出された葉っぱに食い付いていた。  パパイヤの葉っぱは、ウサギの大好物なんだ。  有難い……大神君よく知ってるなぁ……!  もくもくと凄い勢いで食べていたら、大神君が俺の背中をヨシヨシと撫でてきた。  ビクッとなって食べるのが止まると、すぐに手が離される。  大神君はウサギ好きなのか……?  食べるのをやめてそのままじーっと見ていると、相手は遠慮がちに俺に背中を向けた。  そのハーフパンツのウエストとTシャツの間から、モッフリとした太い灰色の尻尾が出ているのに気づく。  しかも、左右にブンブン振られている……。  あった……!!  大神君の表情筋!!  こんな所にあったのかー!!  可愛いなぁ……。  さっきまで出てなかったのに、俺がうさぎになってるから、誰にも見られてないような気分になって、油断して尻尾出しちゃったんだな……。  大神君の尻尾を見たことあるの、もしかすると俺だけかも知れないぞ。  ――なんだか凄く感動して嬉しくなって、ぷぅ! と音が鼻から漏れた。 □ □ □  日差しが強いせいか、夕方には俺の服も乾いていた。  狭いテントの中で人間の姿に戻り、シワシワのTシャツを着て、ハーフパンツを身に付ける。  水着はいつまでも着てるのも気持ち悪いから、もはやノーパンだ。  外に出ると、鮮やかな夕日に照らされた白い砂浜で、大神君が焚き火の準備をしていた。  パイナップルに似たアダンという木の枯葉を集めると、着火剤になるらしい。  火起こしは、サバイバル番組でよく見る棒と板……じゃなく、大神君は普通に防水仕様のターボ・ライターを持ってきていた。  番組の趣旨を外れていたんじゃないかと思うほど装備がガチすぎるけど、そのお陰で俺、ほんと助かってる。  大神君が釣ってくれたのはヒラアジで、昨日俺がロケで釣った貧弱な魚より、ずっと美味そうだった。  遠火で塩焼きにしている内に、太陽が海面を輝かせながら水平線の向こうに落ちてゆく。  どこか切ない、美しい光景……。  まだ救助が来ない内に1日が終わろうとしているのに、何故か不思議と、心が満たされている。  ……物静かな大神君は、まるで何年もここに住んでいる人のように落ち着いているし……。  そんな冷静な彼と二人きりでいると、どうしてか、不安にならない。  むしろ東京にいた時の方が、もっとずっと不安だった。  今までグループで応援してきてくれていたファンの人達が、離れていってしまうんじゃないかって怖くて。  仕事がどんどん減って行って、みんなに忘れられて、過去の人になって……本当に俺、この先も芸能界でやっていけるのかって、毎日胃が痛かった。  でも俺の人生には、本当はもっと色んな選択肢があったのかも知れない。  人間の姿で歌を歌うのが好きで、歌手を夢見て事務所に入ったけど……。  いっそ人間を辞めて、今までの貯金でこういうのんびりした島を買って、野生のウサギ獣人として暮らしたって、いいんだよな。  獣人って、自然に近い環境で人と交流せずに暮らしてると、適応してどんどん獣に戻るって、聞いたことあるし……。  三角座りでパチパチとはぜる火を眺めながら思案に耽っていると、大神君が木の枝に刺したヒラアジを無言で俺に差し出してきた。  いい感じで焦げ目がついて、美味しそうな匂いのするそれを受け取る。  フーフーしながら食いつくと、今まで俺の食べてた魚は何だったんだと思うくらい、泣きたくなるほど美味かった。  これの前に食べたのは、ロケ中に唯一釣れたニセカンランハギ一匹のみ……衝撃的に不細工な顔してた上、ギトギトして美味しくはなかった。  アイドル力があると美味しい魚まで釣れちゃうのだろうか……。  大神君を見ると、大きな犬歯を立てて器用に魚を食べている。  大神君、今日一日俺よりもかなり活動してるけど、魚で足りるのかな。  俺はその辺の植物が生で食えるからまだどうにかなるけど。  肉とか、食べたくならないのかな……。  ふと疑問に思った瞬間、焚き火を映してギラギラと輝いている大神君の目が、俺をじぃっと見つめてきた。  ぎくりとして、俺も食べるのをやめ、彼の瞳を見つめ返す。  そして気付いた。  大神君の目が輝いているのは、焚き火のせいだけじゃない。  虹彩が美しい琥珀色をしているんだ。  誇り高く神秘的な、狼の瞳。  以前目が合った時、睨まれてるのかと思ったけど、そうじゃなかった。凄く瞳の力が強いんだ。  そのことに気付いて、心がますます吸い込まれていく感じがした。  カリスマ性のある人間を好きになる瞬間の、理屈で説明できない、恋のような気持ち……。  なんだろう……いま俺、大神君みたいな狼になら、食われてもいいって気がしたな……。  なんて――自分の生存本能の危うさにハッとして、目を逸らした。  いや、その人生の選択肢はダメだろ、俺……!  自ら焚き火に飛び込むブッダの白ウサギになる所だった、危ねぇ危ねぇ。  昨日まで苦手な相手だったくせに、俺、何考えてるんだ。  誰か特定の人間に対して、こんなに惚れっぽかったこと、今までないんだけどな。  いつも先輩後輩の男どもと中学生みたいなノリでつるんでて、ファンに「あいつ大丈夫か」って心配されるぐらい女の子とのスキャンダルも無縁だったし……。  そういや、大神君は彼女とかいるのかなぁ。同じグループのメンバーも含め、プライベートで事務所の誰かと親しそうにしてるのは見たことない。  こういうタイプって、友達はいなくても異性の恋人は普通に居たりするんだよな。  そんで、彼女と一緒にいる時だけは違う人格出てたりして。  ちょっと聞いてみたいけど、とてもそんな話題を気軽に振れるタイプじゃねぇんだよな。  ……ていうか、さっきから会話が無さすぎて、俺の脳内独り言だけが湧いてしょうがないんだが……。  でも、何か話したら、この静かで穏やかな時間が、ガラス細工のように壊れてしまいそうで。  きっとすぐに助けは来ると思うし……あともう一年もすれば、大神君は自分のグループの冠番組を持つようになって、バラエティにゲストで出ることもなくなるだろう。  解散直後で話題になってるから呼んでもらえた俺と、駆け出しの今だからこそ呼ばれた彼が、同じ時間を共有出来るのは、今だけ。  こんな風に、二人きりになることも、もう二度と無いんだろうな……。  ……あれこれ考えている間に、結局無言のまま、ささやかな夕飯の時間は終わってしまった。  焚き火が燃え尽きて、その上に一緒に砂をかけている時、大神君がふと顔を上げ、頭上を目で指した。 「……兎原さん。……星」  つられて空を見上げると、澄み渡った宵闇の夜空に、細かい砂金をこぼしたような天の川が広がっていた。  光の強い星はそれぞれの色味を強く輝かせ、弱い星も生きてるみたいに瞬いて……昏い宇宙に縫い留めた宝石みたいだ。  昨日の夜は天気が悪くて、気付かなかった。  あの分厚い雲の向こうに、こんなにも美しい星空があったなんて。 「凄いね……こんなの見たことない……」  隣を見ると、大神君の琥珀色の瞳が星あかりを集めて輝いていて、びっくりした。  その横顔が余りにも綺麗で……無人島生活、延長になって良かったなって……その時の俺は、つい無責任にも、そう思ってしまったのだった。 □□□  焚き火を完全に消したあと、俺たちはテントのある真っ暗な林まで戻った。  俺も大神君も、純粋な人間より多少夜目がきくけど、やっぱりちょっと暗闇は怖い。  入り口のジッパーを開け、男二人が中に入ると、一人用の狭いテントは、かなり満員御礼状態になった。 「……俺、あんまり場所取らないようにうさぎになるね」  気を使ってそう言うと、闇の中で大神君の影がコクンと頷いた。  ふーっと大きく息を吐き出しながら、再びちんまりしたうさぎの姿になる。  今度はTシャツやらハーフパンツやらの中に溺れてしまって、大神君が両手で布の山から救い出してくれた。  ちゃんと生き物の抱き方を知っている、丁寧な仕草だ。  俺は隅っこの方にちょこんと置かれて、その間に大神君は自分の封筒型の寝袋の脇のジッパーを完全に開き、敷布団のようにして、テントの中に広げた。  無言でまた、前足の下に手を入れて身体が持ち上げられ、フワッとした寝袋の真ん中に戻される。  俺の身体を避けるように、大神君が隅に寝転がった。  暑いから掛け布団は要らないにしても、そんなに俺にスペースを譲っちゃって、寝にくくないんだろうか……。  真っ暗なテントの中で聞こえるのは、浜に打ち寄せる穏やかな波の音だけだ。   昼間にちょっとだけ寝ちゃったせいか、妙に目が冴える。  やっぱり夜は不安だ。  ちゃんと入り口のジッパーを閉めてるけど、南国特有の大きい虫とか、入ってこねぇか心配だな……。  ドキドキしていると、急に後ろでみじろぎする気配がした。  息の混じった、色っぽい艶のある低い声が闇の中で囁く。 「……兎原さん。このままちょっと……話、聞いてもらっていいですか」  ビックリした。  そんな風に自分から積極的に会話らしいものを仕掛けてくるの、初めてじゃないかと思って。  もちろん先輩風を吹かせ、「いいぜ!」と答えたいところだったけど、今の俺はしがないアナウサギだった。  仕方がないので、返事の代わりに背後の温もりにピッタリくっついて寄り添い、箱座りした。  準備はできた、さあ話してくれ。相談されても何も答えられねぇけど……。 「俺、……事務所、辞めたいと思っていて」  なん……だと……!?  爆弾発言で、俺の背中の毛が全部ざわわっと立った。  今、俺の背な毛、触ったらホワッホワになってるぞ……! というぐらい、驚いた。  何てこった!  これからって時だろ!  他に夢が見つかっちゃったのか!?  ……もしかして語学留学してハリウッド・デビューしたくなっちゃった!?  それとも極秘恋愛中の彼女と結婚!?  激しく聞きたいけど、後ろ足をスタンピングして、鼻をフンスカ鳴らす以外何も出来ない。  そんな落ち着かない俺のホワッホワの背中に、大きな手が優しく触れる。 「ずっと今まで、どうにか誤魔化してきたけど……。やっぱり俺はアイドルに向いてないです」  はい!?  よく見えないけど、どの口でそんなこと言ってるんだ……!?  叫べない代わりに、足ダンが激しくなる。  ただでさえ人間より速い心臓の脈拍がドッコドッコ鳴った。 「……歌も、ダンスも、演技も嫌いじゃないけど、でも、人間関係が極端に苦手で……」  大神君……気にしてたのか……。  ……順風満帆で、何の悩みも無さそうに見えてたけど――俺と同じくらい、大神君も悩んでいた……? 「……普通にしてても、いつも愛想がないって怒られるし、トークが寒過ぎる、お前はもう喋るなって、いつもメンバーやマネージャーさんからダメ出しされるんです」  いや、ダメ出しなんて……デビューしてから数年は俺だってそうだったよ。  大神君はすごく不器用なんだな……。  でもそれで一足飛びに芸能人に向いてないって判断するのは早いと思う。  俺は純粋なうさぎじゃないから、引退には積極的に反対してしまうぞ。  と言っても声は出ないから……前脚で相手の胸にのしっと乗り、Tシャツにガジガジ噛み付いてやった。  ……大丈夫だよ。  大神君、本当はすげぇいい奴だし。  そういうのって、液晶通して視聴者にはちゃんと伝わるモンなんだぜ。  話すなんてことは慣れだし、この先幾らでもなんとかなる。  アイドル以前に人として必要な、ひたむきな素直さ、誠実さを、大神君はもう、持ってる。  勿論、口下手とかそんなこと、問題にならないくらいの実力も。  どうにかなるよ、きっと。  ……って……人間になって言ってやりたいけど。 「……すみません、一方的に。……俺、子供の頃も完全に周りから浮いてて。ソウルの実家で、食うために飼ってたうさぎだけが友人で、よくこうして話してたから」  聞いていて、ヒッとなった。  うさぎ食ってたの!?  い、いくらなんでも俺は食われないよな……!?  しかし、食用うさぎに一方的に話しかけるスタイルの悩み相談をその頃からしてたってことだよなぁ。  く、暗いな……。  しかも多分、俺が今うさぎだからこういうこと、話せてるって……?  うさぎ相手にリラックスしてたら、全然いい感じに話せてるじゃねえか!  という思いを込めてひたすらガジガジしてたら、胸の中にぎゅっと抱き締められた。  わぁ、胸筋フワッフワに柔らけぇ……! 「もう、一生誰にも会わないで、ここでこのまま、ずっと兎原さんと暮らしたい……」  エッ。  そんな……俺もちょっぴりそう思わなくもねぇけど……絶対駄目!  捕まったままジタバタ暴れると、大神君がフッと息を吐き出した。 「……なんて、冗談です、全部。スミマセン。明日は、助けが来るといいですね」  そっと俺の体が床に戻される。 「もう、寝ないと……俺も狼になりますね」  闇の中で、服を脱ぎ捨てる衣擦れの音がした。  大神君の気配の形が、変わってゆく。  人間のそれから、……でっかい犬のようでいて、でも明らかにそれとは違う存在感の、被毛を纏った逞しい骨格の獣に。  そして俺は密かに真っ青になった……。  近すぎる捕食者の息遣い……暗闇の中で爛々と光る、犬とは明らかに性格の違うものすごい吊り目……。  く、食われる……!!  本能的に感じる猛烈な生命の危機感、圧迫感が凄いぃ……。  フン、フンと音がして、背中の匂いを嗅がれてるのが分かる。そして次に、ハァ〜、とでっかい口からため息が漏れ、ドサリと狼が後ろで横たわった。  俺の体が太い尻尾に包まれ、八方モフモフした空間に閉じ込められる。  あのう……今、絶対、美味しそうと思ってたよな……? 俺のこと……。  いや分かるよ、大神君は優しいからそんなことしないって。  だけどこの状況で俺……眠れるのか……!?  ……俺と大神君の二人きりで過ごす一夜目の夜は、まだまだ長くなりそうだった……。 □□□  身の危険を感じていた割には、案外グッスリ眠ってしまっていたらしい。  朝目が覚めると、俺を包み込んでいた尻尾は消えていて、テントの中に大神君の姿は無かった。  黙って、どこに行ったんだろう。  一人きりにされると、急に不安で堪らなくなってくる。  今日こそ、助けが来るかなぁ……。  うさぎの姿のまま、後ろ足で立ち、入り口のジッパーを歯で噛んで開ける。  テントの中からぴょんと飛び出すと、ワサッとしたものが沢山足元に敷かれているのに気づいた。  見下ろすと、俺が食べられそうな木の葉っぱや草がたくさん積んであった。  大神君、集めてきてくれたんだ……。  なら、そんなに遠くには行っていないよな……。  安心したら急にお腹が空いてきて、俺は黙々と貰った朝ごはんを食べた。  仕事が忙しかったせいか、こんなに長時間うさぎで居るのは久々だ。  俺、すっかり大神君のペットみたいになってないか……?  いや、むしろ……飼育されている……?  昔、食べるために飼ってたうさぎみたいに……。  ぞくりとして食べるのをやめた。  いや、まさかそんな……。  それにしても、大神君はどこに行ったんだろう。  また、釣りかな……。  岩場の方に行ったら、いるかな?  狭い木と木の間を潜り、俺は徐々にテントを離れ、マングローブの根をぴょんぴょん跳び越しながら歩き出した。  それっぽい音は、聞こえないけど……。  と、思っていたら、近くでバキバキという木の枝の折れる音が聞こえた。  ビクンと耳を立て、気配を探る。  葉擦れの音と、枝を踏み荒らす音。  林の中で、何かが激しく動いている。  音が細かい……人間じゃない。  怖い生き物だったらどうしよう!?  ダッと後ろ足で地面を蹴り、俺は近くの木の後ろに隠れた。  フーッ、フーッと獣の息遣いの音が近づいて来る。  林の間から現れたのは、口に血塗れの何かをくわえた、化け物かと思うほど大きな狼――多分、大神君だった。  狼は頭を低くした独特の四足歩行でやってくると、地面の上にグッタリとした何かの生き物を置いた。  青っぽい羽根の、鳥……だろうか。  まだピクピクしていて、生きている。  大神君は前足でそれを押さえ、尖った奥歯で噛み付き始めた。  赤いものが乱暴に剥ぎ取られ、咀嚼する度に細かい骨がパキポキと折れる音がする。  怖い。  身体がガタガタ震えて止まらなくなった。  今にも逃げ出したい気分になっていると、狼がクンクンと空気の匂いを嗅ぎ出した。  ヒッ。  俺、風上に立ってしまっている――。  狼がこっちに獰猛な視線を向け、グルルルルと威嚇するような唸りを上げた。  とっさに、俺はほとんど本能的な反射神経で、強く地面を蹴っていた。  狭い気根の間を全力で走り抜け、混乱しながらテントの中に飛び込み、寝袋の下に身体ごと突っ込んで身を隠す。  ……本当にあれ、大神君なのか!?  もうメチャクチャに怖いし、鳥、生のまま食べてたし、人間ぽさのかけらも無かったぞ……!?  うさぎのまま襲われたら、抵抗できずに一瞬でやられる!  人間ならまだ対抗できるかもしれない……っ。  激しく呼吸を繰り返しながら、俺は裸の人間の姿に戻った。  急いでTシャツを着てハーフパンツを穿いて、何か戦えそうな武器はないかと大神君のリュックを漁る。  ……ああもう、何もない!  頭を抱えた瞬間、背後でジーッと、テントの入り口のジッパーを下げる音がした。 「……? 何探してるんですか、兎原さん」 「ひぃ!」  甲高い悲鳴が口から飛び出す。  後ろを見ると、地面に膝を突いて屈んだ大神君が、無表情でテントの中を覗き込んでいた。 「いや、その、あの」 「……。お腹空いたんですか? その中、何もないです」  まさか、狼と戦うための武器を探していたとは言えない。 「いや、うん、その……草以外のものも食べたいかなって……」 「スミマセン。俺、さっきイソヒヨドリを捕まえたんですけど……。調理が面倒で、つい一人でそのまま食べちゃいました。兎原さんも食べたいですか? もう一匹捕まえて、血抜きと内臓を処理すれば……」 「いや、結構です!」  即答が思わず敬語になってしまった。  それにしても、なんてことだろう。  さっきの狼はやっぱり大神君だったのだ……。  俺が葉っぱや草を食べられるのと同じで、そりゃあ大神君だって、生肉が食えるよなぁ。  俺みたいに草が食べられない分、腹だって空くだろうさ。  でも、さっきの大神君はあまりにも野生の狼で、前に聞いたことのあるあの話を思い出してしまった。  獣人があんまり人里離れて住んでると、だんだん獣に帰っちゃうっていう……。  ここにいるうちに、大神君が本当の狼に戻ってしまったらどうしよう。  俺だって、気が付かないうちにただのうさぎになっちまうかも。  そうなったら、もう……! 「お、大神君!」  俺は四つん這いでテントから顔だけ出し、必死の思いで大神君を呼んだ。 「何ですか」  外に立っていた大神君が無表情で俺を見下ろす。 「提案なんだけど……俺たち、なるべく人間でいよう。それで、ここにいる間は、いっぱい話しよう!?」  大神君は一瞬目を丸くして、照れたみたいに三角の耳を片方ピコっと伏せた。 「……わかりました」 □ □ □  ――話をしよう、なんて言ってみたのはいいものの。  基本的に大神くんが無口なので、俺がなんか喋るしかねぇんだよな。  それか――いつもなら聞けないような、質問でもしてみるしかない。 「大神君さ、なんで日本に来たの」  波打ち際で無限に腕立て伏せをしてる大神君の横で、俺は質問してみた。  もう三日もジムに行ってない俺も筋トレした方がいいとは思うんだけど、今はそんな気になれない。 「……本当は、芸能関係を目指すのはもうやめようと思ってたんです。それで兵役行って、除隊したらその後大学行こうと思ってて……そしたら、今の社長が声かけてくれたので」  うーん。……うちの変人社長の口説き文句がそんなにも魅力的だったんだろうか。  昨日は向いてないって言ってたけど、一体何が決め手だったんだろうな。  聞いてみたかったけど、本格的に筋トレの邪魔しちゃいそうだからやめた。  ……それにしても上腕三頭筋、カッコいいなぁ。  Tシャツの下で透けてる背中の真ん中の縦ラインがセクシー過ぎる……どうやったら脊柱起立筋がこんなに盛り上がるんだ。  なんて、暇なのも手伝ってじーっと眺めていると、大神君がすっくと立ち上がり、海を背景にやおらダンスを踊り始めた。  これ、見たことある。  昨日、Nステで披露し損なったウルフの新曲の振り付けだ。  和のアウトロー感を全面に出した『傾奇者(かぶきもの)』風のワイルドに着崩したラメ入りの着物に、斬新な和物のアクセサリーを全身に散りばめた衣装で、ビジュアルが凄くカッコいいんだ。  他の四人は黒と朱色が基調なんだけど、大神君だけが銀色の羽織を片肌ぬぎにしていて、筋肉がまんま衣装。  歌詞にもストーリーがあって、狼の姿をした神様が、人間の女の子に許されない恋をして、その子のことをいっそ食べてしまいたいと切望する歌詞。  目の前で踊る大神君は、そんな狼の切ない、苦しい心をキレッキレのダンスの中で十二分に表現していた。  波の音しか聞こえない筈なのに――両腕を差し出してヒロインの愛を求める表情豊かな四肢から、心臓を掻きむしるようなリズムと、極彩色の旋律が伝わってくる。  知らず知らずのうちに、大きなため息が出た。  俺はもう自分の持ち歌のダンスを練習することは無いんだ、ってことが身につまされたのと、余りにも大神君のダンスが上手くて、心に刺さる……ってことの、両方で。  膝を抱えて蹲っていると、大神君はいつの間にか練習を終えていて、息を上げながら俺に話しかけて来た。 「……兎原さん。あの……俺にボイストレーニング、して貰えませんか」  びっくりした。  歌だって、ちゃんと本場で訓練受けてて、俺よりずっと上手いと思うのに……何で俺に?  ここに、俺しかいないから?  ……そうだよな、多分。 「……悪いけど、俺じゃあ教えられないよ。でも、聞くぐらいなら出来るから……好きな歌、歌っていいよ。俺、大神君の歌、聴きたいし」  そう告げると、大神くんは少し間を開けて俺の隣に膝を立てて座った。  その唇から、海に話しかけるみたいに、滑らかなメロディが溢れていく。  ――いつもそばにいて  君の心の音聞きたい  寂しいと死んじゃうから  目を閉じる時は抱きしめて    その歌詞は、俺が凄くよく知っている、ちょっと気恥ずかしい歌で……。  ……大神君、なんでそれ歌えるんだよ。  それ、バニーボーイズのデビュー曲じゃねえか。  余りにも懐かしくて、大神君の歌を聴くだけのはずが、つい俺も一緒に歌い始めてしまった。  すると、大神くんはいつの間にか主旋律を俺に任せ、ユニゾンのこの曲には無いはずのハモリパートを歌い始めた。  その優しく支えるような低音とのハーモニーが、余りにも心地よくて……身体中に鳥肌が立った。  歌詞も旋律も細かいところまで完璧で、昨日今日で覚えたって感じじゃ無い。  我慢できなくなって、立ち上がり、歌いながら、俺も海に向かって一人で踊り始めた。  白い波の上に、うさぎ型の大きなうちわを持ったファンの人たちと、客席いっぱいのニンジンペンライトの記憶が蘇る。  デビューして、俺たちだけのための歓声を初めて浴びた日の感動。  大きな会場をやっと満員にできて、帰りの電車の中で、人目も憚らずに号泣したこと……。  今の俺が踊るには余りにも可愛すぎる、女の子みたいなダンスだけど、構わずしゃにむに踊った。  驚いたことに、大神くんも隣で立ち上がり、俺とシンメだった愛彦のダンスを完璧なフリで合わせてきた。  俺が腕を伸ばすと、大神くんも伸ばす。  一緒に指先でハートを作って、片耳を倒すと、大神君の三角の耳も片方だけ可愛く倒れる。  前を向いて首を傾げて、お客さんに向かって手を振る……。  ――もう、一生誰かとこんな風に踊るなんて、無かったはずなのに。  胸が熱くなって、何かが溢れて止まらない。  歌い終わった時、海に向かって突っ立ったまま、涙が溢れ出て止まらなかった。  グループが解散することが決まってから、一度も人前で泣いたことなんてなかったのに。  Tシャツだし、拭うものなんて何もなくて、砂浜にぼろぼろ涙を落としていたら、大神くんが困った顔で近寄ってきて、俺の頬を舌で優しく舐めてきた。 「……っ」  その仕草が、不器用な犬みたいな感じで、何を言っても受け止めてくれそうだったから……俺は思わず、彼の首に両腕で抱きついて、大声で泣き叫んでしまった。 「俺、歌が好きだ……っ、アイドルが好きだ……っ。終わりたくねぇよぉ……っ!」  ずっと我慢してた。  我儘言ってもしょうがないんだって。  時間を戻すことなんて、出来ないんだからって。  でも、本当は、終わりたくなかった。  ずっとステージに居たかった。  大神君の大きな手が、俺の背中を支えるように抱き締めてくる。  ――大人になって初めて、……誰かにとりすがって、本音で泣いた。 □□□  その日も結局、救助が来ることはなかった。  俺と大神君はあの後別々に分かれて、水を汲んだり、釣りをしたり、食べられる植物を探したりして一日を過ごした。  夕飯の時間には再会して、火の起こし方や、魚のちゃんとしたさばき方、焼き方を彼から教えて貰った。  まるで、短い夏休みを過ごしてるかのようだけど、心の奥底では少しずつ不安が募る。  ……ずっとこのまま助けが来なかったら、俺たち、どうなるんだろうって。  暗闇を焦がすオレンジ色の炎を眺めながら、俺は午前中から気になっていたことを聞いてみた。 「……大神君、バニーボーイズの歌、どこで覚えたの」 「……学生時代に、動画サイトで見てました。……親の里帰りについて日本に来て、コンサートに行ったこともあります」 「マジで!? 大神君、あの中にいたんだぁ……!?」  ビックリした。  俺たちのファンって、女の子が殆どだったし。 「うさぎ、好きなの……?」  大神君が、無言でこくんと頷いた。  焚き火に照らされているせいだけじゃなく、顔が赤くなっている。  可愛いなぁ……。きゅんとしちゃうだろ。  食用から始まってるのがちょっとアレな愛情かもしれないけど……。 「コンサートの後の握手会に並んだこともあります……十年くらい、前」 「え……! 誰のレーンに並んだの」 「……兎原さんの……」 「流石にそれは嘘だろぉ……!」  俺が元気ないから、励ましてくれてんのかなぁ、と思ったけど……。 「いえ、本当です」  ものすごく真剣な目で見つめながら言われて、本当なんだ、とやっと納得した。 「でも俺、覚えてねえなぁ。男の子珍しいから、覚えてても不思議じゃないのに」 「……それが……兎原さんの列に並んだはずだったのに、いつの間にか気付いたら宇佐美さんと握手してて」 「ぶっ。俺、一番人気なかったから、ありがちだったよ、そういうこと……!」  広い会場でキョトンとしてる、今より小さい大神君の姿が思い浮かんで、吹き出してしまった。  光(ひかる)は若い男の子が握手に来ると、リップサービスで「愛してるよ! 俺達、日本じゃ結婚できなくて残念だね!」とか、調子のいいことよく言ってたんだよなぁ。  大神君もまさかの擬似プロポーズされちゃったのかも。  そのまま笑い転げてると、淡々とした低い声が、炎に向かってぽつりと呟いた。 「俺、あの時、兎原さんに言うはずだったんです。……俺もアイドルになるから、いつか一緒に歌って下さい、って」  ……。  それこそ擬似プロポーズみたいな言葉に、死ぬほどビックリして、何も言えなくなって真顔で黙り込んでしまった。  もしかして、芸能人向いてないって自分では思ってたのに、大神君が今、ここにいるのは……。 「……スミマセン。なんか、気持ち悪いですよね……ストーカーみたいで……」  大神君が俯いて、前髪を手でぐしゃぐしゃかき混ぜている。 「最初は三人全員の箱推しファンだったんですけど……。兎原さんのソロの所の、優しい声が凄く好きだなって、気付いて」  下を見たまま、ウン、ウン、とただ頷く。  ダメだ、また涙が出そうになる。  だって、こんなにひたむきに、俺のことを応援してくれていた人が、こんな近くに居たなんて。 「今でも俺、兎原さんの歌が、声が好きで……。だからその。……グループがなくなっても、兎原さんには歌、やめてもらいたくなくて。……あのう、俺がこの先、もう少しキャリア積んだら、社長にお願いするので……」  大神君が、ゆっくりゆっくり、言葉を選び、きらきら光る琥珀色の瞳で俺を見つめる。 「俺は兼業になっちゃうけど、それでもよければ……。……いつか、俺と、ユニット、組んでください」  その告白には、今までどんな女の子から言われた『好き』よりも強い、魔力みたいなものがあって……。  俺の心は怖いほど揺れ動いていた。  これほど才能のある若い彼が、俺を選んで誘ってくれるなんて、そりゃ嬉しくない訳がない。  でも反面、この世界で十年以上やってきた、冷静な先輩としての俺が、手放しで喜ぶことを拒否した。  だって……俺と大神君のユニットなんて、誰が喜ぶんだ?  彼と同じくらい人気のある、若いアイドルならともかく……。  自分の中にある冷徹な結論に、冷や水を浴びたようなテンションになって、俺は視線を伏せた。 「……大神君。そんなこと、今言わない方がいい。……『ウルフ』の活動を疎かにするのかって、ファンにも、ウルフや事務所の人たちにも思われる。それに……大神君は、これから世界に行くんだ。ある程度キャリアを積んだ時には多分、終わってる俺なんかと、ローカルな活動してる暇はないと思う」  炎に照らされた綺麗な顔がこちらを見たまま凍りつき、そして悲痛に歪んでゆく。  それでも、俺は無理矢理笑顔を作って、言葉を続けた。 「だから……俺の代わりに、俺が見られなかった景色を見て欲しいんだ。大神君にはその才能があると思うから。向いてないなんて言ってたけど、絶対に大神君は、世界の人に愛される、凄いアイドルになれる人だからさ」 「……っ」  大神君は俯いたまま、黙り込んでしまった。  そりゃあそうだよな。一世一代の告白が、大人の対応であしらわれたら……。  でも、子供時代の憧れだけに囚われていたら、世界なんて目指せない。  ……国境を乗り越えて世界を変える、唯一無二の存在にはなれない。 「有難う。大神君が誘ってくれて、俺、嬉しかったよ」  俺は静かに立ち上がり、手を差し伸べた。  ……でも、大神君は目を逸らしたまま、決してその手を取ってくれなかった。 □ □ □  気まずい感じになっても、俺と大神君は離れ離れに寝る訳にはいかなかった。  テントは一人用の一つしかないし……。  ウサギになって、地面に巣穴掘ってそこで寝てもいいんだけど……それやると全身土まみれになって、二度とテントに入れない身体になりそうだしな。  まだガチの無人島生活は二日目だし、そこまでは野生化できないぜ。  遠慮がちに一緒にテントに入り、出入り口を閉めた後で、俺はウサギになった。  なるべく人間でいようって言ったけど、今は話が出来ない方がいい気がして。  大神君も狼になるのかなとビクビクしてたけど、彼は人間のまま、俺の洋服を畳んでくれ、寝袋の上に横たわった。 「……明日、雨かもしれないです。西の空が曇ってたので」  また、独り言のような感じで話しかけられた。  俺はもちろん、この体じゃ返事すらできない。  海が荒れたら、救助はもっと遅れるだろうな……。  真っ暗なテントの中で暗澹たる気分に浸っていると、大神君はとんでもない事を言った。 「助けなんて、来なければいい」  ……こんな、皮肉っぽくて投げやりな口調は初めてだ。  でも、もしかしたら彼は、最初からそんな風に思ってたのかもしれない。  ここに流れ着いた時も妙に落ち着いていたし、慌てる様子もなかった。  人に常に見られ、評価され、常に完璧であることや、理想を求められて……時にはいわれのない嫉妬や憎悪をぶつけられ、顔を出して外を歩くことすら出来ない――そんな、普通の神経じゃ耐えられないような芸能人の生活が、嫌になっていたのかもしれない。  誰もいない、誰一人見ていない場所で、ただの野生の狼に、戻りたかったのかも……。  元々、有名になりたい訳でも何でもなく、日本で俺と一緒に歌うことだけが目的だったんだとしたら……無理もない。  そう考えたら、俺……。  さっき凄く、酷いことを言っちゃったのかも……。  彼の為を思って言ったつもりで、かえって自暴自棄にさせてしまったんだろうか。  でも大神君の将来のことを考えたら、俺としてはああ言うしかなかったんだ……。  追い詰められたような気分で隅に縮こまっていると、背後の大神君が急に動いた。  ビクンと震えた俺の背中に、妙に熱い手が触れる。  その手が優しく毛を撫で始めた。  低く、穏やかな声が上から降ってくる。 「……すみません、変なこと言って不安にさせて。……俺、別に、さっきのことで辞めたりしないですから……。元々、憧れてた兎原さんの近くに居られるなら、それでいいって思ってたし……。でも、ただ……」  躊躇うような間をおいて、小さく声が呟く。 「ここに来て、凄く楽しいから……ずっと、兎原さんと二人きりでこうしていられたらって、つい思ってしまっただけです……。自分の曲じゃないけど……いっそ食べてしまいたいくらいに……」  凄く怖いことを言われてるのに、どうしてか怖くなかった。  俺と一緒にいて、楽しいって思ってくれてた……。  自分が好意を持っている人間から、それほどまでに思われているってことに、感動して。  芸能人でいたって、誰かとお互いにファンになることなんて滅多にないんだ。  あっても、社交辞令だって分かることの方が多いし。  でも、大神君は違う。  アイドルになる前から、俺のこと、本当に好きでいてくれたんだ。  ずっと……。  大神君に出会えて、俺がアイドルになった意味はあったんだって、心の底から感じられた。  嬉しくて、今このしあわせな、フワフワした気持ちのまま、時を止められてしまってもいいって思ってしまった。  ……食べてしまいたいと彼が言うなら、食べられてもいいと……そんな気持ちに。  俺は芸能人として、大神君に、何も役に立つことがしてあげられない。  無人島でだって助けられてばかり、世話をされてばっかりだ。  その上、たくさん嬉しい、救われることを言ってもらえたのに、俺は何も返せない。  俺はやっぱり――大切な相手に何か食べ物をあげたいのに、自分の体しかなくて火に飛び込んだ、あの昔話の白うさぎなのかもしれない。  食べていいよ、という気持ちで、俺はくるりと頭の向きを変えた。  大神君の手に頭を擦り寄せて、ペロペロ指を舐める。  その指先の爪が鋭く伸び、手の甲が毛むくじゃらになり、指自体が縮み――目の前で、悶えるように喘ぐ獣が、狭いテントの空間いっぱいに生まれる。  頭の上でがっしりした顎が大きく上下に開き、裂肉歯が唾液の糸を引いた。  どうしても怖くて耳が寝てしまうけど、下を向き、ブルブル震えながら首を差し出す。  これから、骨も残さないほどにむさぼり食われて、しゃぶられて、飲み込まれることを想像すると、陶酔に近い悦びが体の奥底から湧き、身体が熱っぽく、気持ち良くなった。  草食動物には、食べられて死ぬ瞬間、脳内麻薬が沢山出るっていうけど……今、俺、そんな酔っ払った状態なのかも。  早く早く、この幸せな気持ちのまま、俺に牙を突き立てて。  何もかも俺の欲しかった理想を形にしたみたいな才能を持った、大神君の一部にして……。  そんな風に思っていたのに……狼は、熱くて大きな濡れた舌で、俺の首筋からお尻を、味見するみたいべろおっ、と舐めただけだった。  ぞわぞわぞわっ、と毛が立ち上がって、次にはガブリと来るかと思ったけど、今度は顔を細かくペロペロされた。  長い味見……?  感覚がボンヤリしているせいもあって、夢なのか現実なのかすら曖昧になっていく。  怖がってたけど、食べられる時って、案外気持ちいい……。  熱っぽい舌にナデナデされながら、両目の目蓋が重くなっていく。  さよなら、みんな。  光に愛彦。  心の中で名前を呼んで、俺は気を失った。 □□□  翌朝――俺を起こしたのは、テントのシートにバラバラと激しく叩きつける雨粒の音だった。 「……」  目を開けると、モフモフしたものが視界に飛び込んでくる。  それは俺の身体にピッタリとくっつき、取り囲むように丸まって寝ている、大神君のフサフサした尻尾の毛だった。  ……俺のこと、食べなかったのか。  なんとなくガッカリした気持ちになって、そんな自分にゾワッとした。  よく考えると、俺を食べたら、大神君が犯罪者になっちまうじゃねーか。  俺、大神君と二人きりでいるうちに、ちょっと頭が変になってたらしい。  芸能人になる人間は、色々なタイプがいるんだけど……中には、壮絶に魅力がありすぎて、周囲の磁場をおかしくして、周りの人の心を狂わせてしまうタイプがいる。  そういう人の場合、逆に一般人から手の届かない存在――芸能人にでもならないと、かえって大変な人生になるらしい。  大神君は、正にそのタイプなのかもしれない。  俺はそういうのに耐性がある方だと思ってたけど、流石にあれだけ好意をアピールされると……心がトロトロになってしまうというか……おかしくもなるよなぁ。  大神君が本当に俺を食べる訳ないのに……。  反省しつつモフモフの中から這い出た。  寝袋の上で前足を思い切り前に出し、尻をキュッと高くして、ウーンと伸びをする。  ヒヤッとした空気が感じられて、ブルリと震えた。  今日は大神君の尻尾に守られていないと、だいぶ寒いぞ。  釣りもできないし、草を集めにも行けない。  本当の野生動物みたいに、ひたすらここでジッとしているしか無さそうだ。  困ったな、早く雨がやんでくれるといいんだけど。  大神君を起こそうか、迷いながら顔の方へ寄る。  丸まって前足に顎を乗せた狼は、眠りながら苦しそうな表情で、息を荒く吐いていた。  ――どうしたんだろう。  なんだか辛そうじゃないか……?  顔をスリスリ押し付けてみたけど、目が覚めない。  前足で肩のあたりに登ってみる。  うさぎは肉球がないせいか、なめらかな毛の上でつるんと滑り落ちてしまった。  ダメだ、狭いけど人間になろう。  目を閉じて深呼吸して、一気に裸の人間の姿になった。 「大神君。大神君……?」  手早く服を着ながら、名前を呼びかける。  狼はグッタリとしながら目だけを開けて、フーッと息を吐き出した。  その大きな体が一瞬起き上がりかけたけど、すぐに四肢を投げ出して倒れるように横になる。 「だ、大丈夫……!? どこか具合悪いの?」  尋ねると、横たわる大きな獣の体から徐々に毛が薄くなり、四肢が伸びて、全裸の人間の大神君になった。  目蓋がうっすらと開き、金色の瞳が俺を見る……けど、ぼんやりとして目の焦点が合わない。 「……。すみません、寒いのと、どうしてか身体に力が入らなくて……」 「……寒い……!? ちょっとごめんね、触るよ」  額に触れると、凄い熱でビックリした。  一体、いつから……!?  何が原因で……!?  ――そういえば、大神君は俺よりも島を動き回っている。  熱帯性の病気を持つ蚊に刺されたか、浜辺の砂や、食べ物の中にいる寄生虫にやられるかしたのかも知れない。  野生の狼の寿命は5、6年だと聞いたことがある。  自然の中で生きるってことは、狼にとってすら、それくらい厳しいってことだ。  初めて、孤立無援の今の状況が心底恐ろしいと思った。  もしもマラリアとか、恐ろしい病気だったら。  薬も何もない、医者に見せることも出来ないこの場所で、大神君は死んでしまうかもしれない。 「……すみません……。少し眠っててもいいですか……すぐに良くなると思うので」 「……うん、うん、狼に戻っていい、無理して喋らなくていいから、寝ていて。俺、水汲んでくるよ」  大神君はこくんと頷き、またすぐにグッタリした狼の姿に戻った。  俺は彼のリュックから浄水ボトルを出して背負い、外に出た。  雨を溜めてもいいけど、時間がかかる。  やっぱり、水を汲みに行かなくちゃ。  うさぎの姿の方が足は速いけど、毛が濡れたままだと体温が調節できなくなるから俺まで危ない。  人間の姿のまま、雨に打たれながら浜辺を回り込むように走った。  びしょ濡れになりながら、海岸ギリギリに切り立っている岩場から出ている湧水の場所までようやく辿り着く。  雨混じりの水を汲んで帰る途中で、砂浜の上に置かれている大きな物体に目が留まった。  ……大神君の筏だ。  思わず歩み寄り、その筏をまじまじと観察した。  人の背丈ほどある、運ぶだけで大変そうな太く真っ直ぐな竹が、縦に七本組まれ、つなぎの横軸として、間を離して短い竹が三本組まれている。  更に浮力を上げるために裏面にも何本か竹を組み、プラスこれでもかとペットボトルを縦横無尽に配置するという……俺の作ったものに比べたら、鉄壁の作りだ。  方角さえ分かれば、雨が止んでから、これで助けを呼びに……。  いやいや、俺は何を考えてるんだ。  そもそも俺が遭難して今の事態なんだぞ。  二次遭難して死ぬのがオチだ。  筏から体を引き剥がし、水量の増えている小さな岩場の滝で水を汲み、大事に持ってテントに戻った。  ポンプを何度か押し込んで浄水し、片手の平に水を受け、大神君の口元に持っていく。 「飲める?」  囁くと、狼は長い舌でペロペロと俺の手の中の水を舐め始めた。  すごくくすぐったいけど、ちゃんと飲んでくれるのが嬉しい。 「ごめんね。……何か、食べるものをあげたいけど、何もなくて」  正確には、俺っていううさぎ鍋の材料があるけど……。それはやっぱり、最後の手段だからな……。  しばらくすると、大神君は水を飲まなくなり、再び目を閉じて眠り始めた。  俺も、彼の身体を腕で抱きしめるように、身体を沿わせて横になった。 「……身体、冷えないように、ちょっと狭いかもしれないけど、俺、このまま抱きついてるね……」  うさぎの体温の方が温かいけど、小さいからな……。  うさぎに比べるとちょっとゴワゴワしてるけど、あったかい毛を手で撫でる。  どうか、よくなりますように。  ……きっと大神君は無理をしすぎたんだ。  本当なら自分のことだけで精一杯になるようなこの状況で、俺のことまで気遣ってくれて……。  横になって気づいたけど、俺もかなり疲れていた。  摂取してるカロリーが普段に比べて格段に低いせいもあるのかもしれない。  気を張ってるせいか腹は減らないけど、頭がひどくボンヤリする。  それでもどうにか意識を保ち、俺は温かい狼の身体を抱いたまま撫で続けた。  ――時々俺も気を失って眠り込みながら、どのくらい時間が経ったのか――。  外が暗くなり、雨の音がしなくなった。  腕の中の獣の息は、痛々しいほどまだ荒い。 「大神君、水、飲んで……」  声をかけたけれど、大神君はうっすら目を開けただけで、無反応だった。  彼の命の炎のようなものが、どんどん小さくなっていくのが分かる。  昨日まであんなに元気だったのに、こんなことって。  それに、――ただ人の世界を離れただけで、生き物がこんなに無力に、そしてあっという間に、命を枯らしていくなんて。  辛すぎて、涙がボロボロと溢れ出た。  どうして俺、あの時――大神君が一緒に歌おうって言ってくれた時、断ったんだろう。  どうせこんなことになるなら、断るんじゃなかった。  俺だって本当は、大神君と一緒に歌いたかった。  その気持ちのまま、一緒に歌おうって言えばよかった。  もう遅いかもしれないけど、俺は腕の中の大神君の頭に口づけして、嗚咽混じりに伏せた耳に話しかけた。 「大神君、死なないで。……俺と一緒に東京に帰ろう。それで、ユニット組もうよ……一緒に歌おう。……ほんとは、俺だって、一緒に歌いたかったんだよ」  ちょっぴりだけ、大神君の耳がぴくんと動いた気がした。 「……社長は売れないからダメだって言うかもしれないけど、休みの日だけ、路上ライブとか動画配信とかでこっそりやったりしてもいいよね。……俺、アコギ弾くからさ……」  大神君の尻尾が、返事をするみたいに僅かに動く。  嬉しくなって、大神君の長い鼻筋に思い切り頬擦りした。  大きな口が開いて、俺の頬を熱っぽい舌が優しく舐める。  ……すると、俺の目の前で、徐々に大神君の身体が裸の人間のそれに変わった。  両手の中で、狼の顔が、汗まみれの端正な人間のそれに変わっていく。  同時にむき出しの逞しい両腕で、すがるように抱き締められた。 「……!?」  燃えるように熱い体温が俺の身体に伝わる。  びっくりしてテンパる俺に、低くて色っぽい大神君の声が、途切れ途切れに囁いた。 「……好きです、……陸斗さん……」  突然の名前呼びと告白に、ヒャッと、変な声が俺の喉から漏れた。  な、何だって……? 「俺、今死んでもいいくらい、……幸せです。……どうせ死ぬなら、……ちゃんと話したくて。……すみません、……俺、……ずっと、好きでした……。でももし、無事に帰れたら」  真っ白になってる俺の、ピンと立っている長い耳の内側に、熱っぽい口づけが降る。 「……俺と、結婚してください……」  け……。  結婚……?  握手会で並んでくれたファンの人からプロポーズされることは時々あったけど。  結婚て……大神君、そういう意味で俺が好きなのか……?  恐らく熱で意識が混濁してるであろう大神君の、色んな手続きを全部すっ飛ばした余りに破壊力の強すぎる単語――結婚。  俺も脳みそがショートして、真っ白になった。  もしもここでイエスと答えたら……?  新聞に、『オオカミとうさぎ、交際0日婚』なんて見出しが出ているのが一瞬思い浮かんだその時、目の前の大神君がガクリと気を失った。 「お、大神君、大神君!?」  死んだのかと思って、身体中から血の気が引いた。  確かめるとちゃんと息はしているけど、顔色があまりにも酷い。  人間の姿をしていると、改めて大神君の衰弱が酷いことがよく分かった。  大神君の考えてることはよく分からないけど、今はそれどころじゃない。  とにかく、もうここでじっとなんかしていられない――!  俺は奥歯を食いしばり、顔を上げた。  雨はもう止んでる。  あの大神君の筏を出して、助けを呼びに行こう。  俺たちが流されてきた方角なら分かるし、そっちに向かえばいいんだよな!?  俺は開いてあった寝袋を元の形に戻してジッパーをあげ、大神君の裸の身体を包みこんだ。  ――こうしておけば、人間の姿でも冷えない。  更に、リュックの中を漁って、何か持っていって使えるものがないかと探した。  あったのは、ライフジャケット、それに大神君の圏外のスマートホンだけだ。  電源を入れると、全く使ってないせいか、ちゃんとバックライトがついた。  ものすごく辛うじてだけど、まだ電池が残っている。  もしも電波の入るところまで漕いでいければ、これも使えるようになるかも。  ライフジャケットを身につけ、スマホをハーフパンツのポケットに仕舞いこむ。  他に使えそうなものは、残念ながら何もなかった。  もう、行くしかない。  テントを出て、入り口もしっかりと閉めて、俺は浜に向かって駆け出した。  マングローブの根に足を取られ、転びそうになりながら夜の砂浜に出る。  青白い、ひたすら波音だけの響く砂浜。  夜空には大きな満月が出たばかりで、まるでサーチライトのように、海に真っ直ぐな光をユラユラと落としていた。  月明かりがあまりに明るすぎるので、星は全く見えない。  一昨日あんなに星が見えたのは、まだ月が登る前の宵闇だったからだと気付いた。  すごく綺麗だけど、何の灯もない世界で見る月は信じられないぐらいギラギラして見えて、かなり不気味だった。  波はまだ高いけれど、やるしかない。  砂浜を回り込むように歩き、筏の置いてある場所まできた。  全体的に長方形の形をした筏の、端っこの部分に手を掛け、持ち上げる。  見た目よりもかなり重量があって、驚いた。  本当にこれ、浮くんだろうか……。  苦労しながらズルズルと筏を引っ張り、波打ち際のすぐ近くまで持っていく。  筏の近くに置かれていた、ベニヤ板と竹で作ったオールを小脇にかかえ、海に出ようとして、ハッとした。  波の音にまじって、微かに何かの音が聞こえる、気がする。  長い両耳をピンと立てて、俺は必死に音の方角を探った。  音は少しずつ近づいている。  人間の耳なら聞こえないくらい微かな、一定した、かなり低い音だ。  これ、どこかで聞いたことがある。  ……船の、エンジン音だ……!  聞こえてくる方向に目を向けると、水平線に近い場所に、ポツンと小さな灯りが見えている。  かなり距離があるし、真っ暗だから、相手は多分こちらに気付いていない。  どうにか近くまで行って、助けを呼ぶんだ……!  俺は筏を一気に海に押し出し、聞こえてくるほんの微かな音に向かって全力で櫂を漕ぎだした。  早く、早く、早く。  気ばかりが焦る。  波が高くて、あっという間に全身がびしょ濡れになった。  力一杯漕いでも、全然光は近づかない。  何かで聞いたことがあるけど、自分の見ている水平線は、大体4.5キロぐらい先の場所なんだそうだ。  だとすると……あの光に近づこうとすると、1・2キロは筏を漕がないと辿り着くことは出来ない。  何も食べていない今の俺には全然体力がなくて、海に出てあっという間にへばってしまった。  満足にこげないのに、筏がどんどん潮に流されていく。  そういえば大神君、潮の流れが速いから、ここで待っていた方がいいと言っていたっけ……。  今更思い出したけれど、今はそんなこと言ってられない。  ――せめて、相手に、どうにか気付いてもらえたら……。  そうだ、何か火とか、光とか、光るもの……!  考えて、咄嗟に持って出た、大神君のスマホのことを思い出した。  俺と同じ機種だし、アレが使えるんじゃないか!?  思いついて、ポケットのスマホを手に取り、懐中電灯がわりにする時のライトを点け、明滅させながら振り回した。 「おーい! おーい!」  聞こえるわけはないけれど、最後の力を振り絞り、必死に大声で呼びかける。  どうか、どうか気付いてくれ。  そんな俺の願いが届いたのか――。  微かな音が、俺の方に向かって近づき始めた。  気付いてくれた!  これで、助かる――。  スマホを振り続ける。  光が少しずつ近づいてくるまでの時間が、まるで、永遠のように思えた。  こっちだ、俺はここだよ!  心の中で叫んだ矢先、――スマホの電池が無惨にも切れてしまった。  ハッとして画面に目を落とすと、真っ暗だ。 「そんな……!」  まだまだ、船までの距離は遠いのに。  しかも、俺の乗っている筏は、強い潮の流れに乗せられ、どんどん元いた場所を離れていく。  せっかく来てくれそうだったのに、目の錯覚とか、気のせいって思われてしまうかも知れない。  しかも、俺の方はどんどん、島からも、船からも離れていく……。  案の定、船の光は全然近づいてこなくなった。  ……ああ。もう駄目だ。  俺はここで二重遭難して、そして具合の悪い大神君は……。  絶望で涙がボロボロ溢れて、手に持ったスマホに落ちる。  その、画面カバーもしてなければ、ケースにも入れてない、無骨すぎるスマホの真っ暗な画面に、月明かりに照らされた俺のグチャグチャの情けない顔が映って、ハッとした。  これ、鏡みたいによく、光を反射する……。  思いついて、気がついた。  これで、あの異様に明るい月明かりを反射したら、少しは目立つんじゃないだろうか。  一か八か、俺は黒光りする画面を月に向け、自分の手の親指と人差し指で船の光を囲い、そこに真っ直ぐに光が届くようにチカチカと反射させた。  太陽じゃないから、こんな弱い光じゃ、届かないかもしれない。  それでも……。  祈るような気持ちでそれを続ける。  ――やがて、明かりが少しずつ大きくなり始めた……ような気がした。  最初は気のせいかと思ったけど、徐々に、俺の目にもはっきりと見える形で。  ついには船の姿が見え始め、そして、あと1キロほどというところまで来ると、微かだけれど、人の声が耳の奥に、ハッキリと届いた。  人間だったら到底聞こえない、船に乗っている人たちの声が――。 「――おおい! 大丈夫か!」 「――そこにいて下さい、救助しますから!」  ……俺、うさぎで良かった。  耳が良くて良かった。  今日この時、今まで生きてきて、一番にそう思った――。 □ □ □  ――テレビの世界には、「事故を起こしてしまったロケ画像は闇に葬られる」という鉄則がある。  まあ、死人は出なかったとはいえ、仕方ないよな、こればかりは。  俺の崩壊した筏も、俺と大神君のあの必死の競争も、そして、俺の命まで救ってくれた大神君の立派な竹筏も、世にお披露目されることは無くなってしまった。  大神君の出られなかった歌番組の生放送は、本人急病の為、で誤魔化されていたし。  あの転覆事故の後、スタッフさん達は全員すぐに助けられたけれど、俺たちだけがいくらさがしても見つからず、みんなパニックになっていたらしい。  捜索は海を中心に行われていて、でもあの日、あまりに潮の流れが速くて、捜索範囲を越えた想定外の場所まで俺たちが流れ着いてしまっていたのが運の尽き。  ……あの夜、俺たちはやっとこさ通りすがりの漁船に助けられた。乗組員に夜目が利く獣人が乗っていたそうで、それも幸運だったらしい。  ようやく東京に帰って来れた俺たちに課せられたのは、数日間の検査と、その為の入院の日々だ。  お互いに、トップシークレット扱いでバラバラに個室に入れられてしまったので、大神君がどこの病院のどの病室にいるのかは、俺にも分からない。  何しろ俺たち、無人島生活する前は疎遠だったから、メッセージアプリすら繋がってないし。  ただ、マネージャーさんに聞いたところによると、大神君はかなり酷い食中毒だったらしい。  多分、狼の姿で、俺に隠れて何度か食べた、生肉が原因だったんじゃないかと言われていた。  ――軍隊でのサバイバル経験もあるし、狼獣人とはいえ、長いこと文明社会に暮らし続けている体でそんなことをすれば、どうなるか予想がついたはずなのに、と。  何故、彼がそんな失敗をしたのか……。  理由があるとすれば、……よほど取り乱していたか、そうしなければ、何か重大なことを、我慢することが出来なかったんじゃないかと……。  それが何なのか、今の俺には何となく分かる気がする。  ……多分、大神君のうさぎに対する愛情は、……本人も気づかない無意識の中で、幼い頃からの本能……食欲と、結びついてしまっていたんじゃないかと思うのだ。  でもあの状況で、大神君はうさぎの俺を決して食べなかった。  自分は何の寄生虫がいるか分からない生肉を食べてでも、俺のことを最後まで守ってくれた……。  病室の無機質な天井を見上げながら、ただそのことだけが心に残って、涙が出た。  良かったんだ、食べられても。  事実俺、……何度も彼に食べられたいと思ってたから。  だって、彼が俺にくれた言葉は全部、俺のアイドル生活の中では最高の、ファンからのメッセージだったから。  ――これから彼は、アイドルに復帰して、どんどん売れて、遠い世界の人になってしまうんだろう。  でも、あの数日間のこと、俺は忘れない。  そして陰ながら一生、大神君のことを応援し続けようと思った。  俺も俺なりに、元アイドルとして地道に生きていきながら……。  ――なんて、思っていたのに。  俺の退院の日……予期しない迎えが来たことで、俺の人生の予定は大幅に狂った。 □ □ □ 「ちょっとちょっとお、聞いてりっ君〜! 俊君たら、アイドルもグループも辞めて韓国に帰りますって言いだしたのぉ! どうしよお〜!」 「はい!?」  大神君ファンの幼女の叫び……ではなく、俺の事務所の変人社長の嘆きに、俺は驚愕した。  病院の待合室で騒ぐ社長は、ホッソリとした体型の、狐獣人のイケメン男性だ。  年齢は50代だと言われているが、どう見ても俺と同じ30代に見えるくらいに化けている。  つり目に、女性のように眉を細く整え、ラベンダー色のホストみたいなスーツに、昭和のアイドルみたいな長めの茶髪。  ヨレヨレのTシャツにジーンズの気の抜けた普段着、プラス変装は申し訳程度のキャップだけ被った俺は、そんな社長の薄い肩を掴み、ガクガクと揺らした。 「帰るって、何で!? 大神君、そんなに身体悪いんですか!?」 「アウアウアウ、やめてそんなに揺らさないでぇ! りっ君、ウサギのくせに馬鹿力なんだから。……身体はもういいの、りっ君より先に退院しちゃったくらいなの。でも急に……りっ君に合わす顔が無いとか、もう自分にはアイドルでいる資格がないとか言い出して。もう、意味がわからないよお。りっ君、一体俊君と何があったの?」  な、何があったも何も……何もないので、俺にも訳が分からない。  強いて言えば……。 「……うう〜〜んと、ユニット組みたいって言われて、プロポーズはされたかも知れないです……?」 「プロポーズ!? りっ君と俊君、まさかお付き合いしてたのお!?」  そう思うよなぁ。  付き合うのはおろか、手を繋いだことすらねぇんだよなぁ……。 「いや、全然。ただ、初めて知ったんですけど、事務所入る前からバニーボーイズのファンだったらしくて……」 「まっ。そうだったの! だからウチに来てくれたのかあ。結構引くてあまただったのに、他の事務所は全部断ってウチに来てくれたの、私も不思議だったんだよねえ」  社長は細い眉をハの字に困らせながら、俺の胸を人差し指で差した。 「りっ君、……まさか、断ったの!?」 「断ったって……どっちの話です!?」 「決まってるでしょ、両方だよ!」 「……う〜ん……。ユニットは、一回断りました。プロポーズは返事とかしてる場合じゃなかったって言うか」 「じゃあ、返事しに行ってあげて! 今時は同性婚なら事務所的にもそんなに害はないし、むしろ話題になっていいくらいだよ。あの才能を繋ぎ止められるなら、私、幾らでも認めるから」 「そ、そうなんですか!? というか、何でOKする前提……?」 「デビュー直後で長年想い続けた雄うさぎの妻と交際0日婚なんて、大神君のミステリアスな魅力が増すじゃない。あの子、実力は十分なのに、トークになるとしどろもどろに当たり障りないことしか言わなくてね。真面目一辺倒で、いまいちキャラ付けが弱かったの。……おっさんのうさぎに惚れてるなんて意外な一面、最高じゃない。どこにリークしようかな。もちろん、好意的な記事にしてもらわなくちゃ」  社長……。俺の意志そっちのけで、話題性でウルフを売ることしか考えてなくないか?  この社長、オーディションの時からの長い付き合いだけど、人がいいんだか悪いんだか、いまだによくわからねぇ。  ジト目で社長を見ていると、彼は細い吊り目をギラリと開いて光らせ、俺の胸に、尻尾の揺れるキツネのキーホルダーのついた車のキーを押しつけた。 「ま、私のそんな戦略だって、大神君が帰ってこないことにはどうにもならないからね。りっ君、支払いなら私がするし、労災の申請もしておくし。だから早く行って?」 「……行ってって、どこに!?」 「空港よ」  社長は鍵を俺に握らせ、祈りでも捧げるように胸の前で長い指を組んだ。 「ドラマなんかでよくあるでしょ。最後に外国に行っちゃう恋人を、体を張って『行くなーっ』って止めるシーン! 午後4時の飛行機で俊君は韓国に帰っちゃうから、りっ君が成田にそれを止めにいくの。俊君はきっと感激間違いなし。……すごいロマンチックじゃない!?」  社長のあまりにも乙女すぎる思考に、俺はちょっと引いてしまった。 「いやいやそんなこと、この退院の日に突然言われても困るんですけど……そもそも、そんなことしたら大神君にも迷惑かもしれないし」  ところが、さすが海千山千の社長は押しが強く、急に説教モードになり始めた。 「もお。りっ君はね、色んなこと先回りして考えすぎなんだよ! デビューする時もそう。『俺みたいな平凡なうさぎが選ばれるなんて、二人の足を引っ張る』とかなんとか……。でも、今までずっとやってこれたでしょ!?」  ううっ、確かにその通りだ。 「……大事なのは、りっ君自身はどうしたいのかってことだよ。俊君と二度と会えなくていいの!?」  社長に真剣に説得されて、ハッとした。 「それは……」  嫌だ。  二度と大神君に会えないなんて、それどころかテレビの中でも見られないなんて……そんなの絶対に嫌だ。  俺は、彼にアイドルを続けてほしい。  合わす顔が無いなんて、俺のことで何か誤解されてるなら、大神君に会って、誤解を解かなくちゃ……! 「社長、俺行ってきます……!」  鍵を握りしめ、出入り口の自動ドアへと足を向ける。 「駐車場に停めてる私の車、使っていいからね。頑張れ、りっ君! うちの事務所の未来は今、りっ君にかかってるんだからねぇ!」  ……何か上手いこと狐につままれたような気がしなくも無いけど……俺は、強い意志を持って病院を飛び出した。 □ □ □  社長に借りたラパンを走らせ、都内から成田へとひた走る。  いかにも乙女チックなペパーミント色の車を駐車場に停め、第一ターミナルに上がったものの――。  空港にいざ来てみると、あまりにもビルが広すぎて、人も多すぎて、待ち合わせもしていない人物なんて、絶対に見つけられる気がしなかった。  大韓航空は北ウィング……? で、本当に合ってるのか……!?  てかそもそも、もう既に出発口を潜ってたらアウトじゃねぇか。  やっぱり、ドラマと現実は違うよなぁ……。  「国際線・出発」の案内板に従って、四階の出発口まで来たはいいものの、大神君の姿なんて影も形もなくて、完全に途方に暮れてしまった。  無理もない。  社長がドラマ脳過ぎたんだ……。  それに乗せられた俺もだけど。  諦めて帰ろう……としたその時だった。  ガラス張りになっている保安検査場の中を、一際背が高くて背筋の良過ぎる、オーラの違う人間が歩いているのに気付いた。  黒ジャージの上下に同色のリュックを背負い、同じく真っ黒なキャップにサングラスをかけてはいるが、歩き方が訓練されたモデルウォークだし、髪の色はブルーブラックで、明らかに一般人じゃない。  うんと耳を澄ませると、職員さんとのやり取りの会話も聞こえてきた。 「携帯電話はこちらのカゴに置いてください」 「あ、すみません……」  ――間違いなく、大神君の声だ!  俺はガラス張りの壁にべたーっと張り付き、両手を振って必死にアピールした。  でも、大神君は手荷物検査に集中していて、全く気付く気配がない。  そのうちに彼は金属探知機を潜り、荷物を元通り背負って、奥のエスカレーターに向かって歩き出してしまった。  ――まずい、見失っちゃう!  焦った俺は、アイドルとしては正直、あるまじき行動に出てしまった。  つまり――。  柱の陰でこっそりうさぎになったのだ。  すぐさま服の中から飛び出し、時速40キロの自慢の俊足で、ごった返す検査待ちの人混みの中を駆け抜ける。 「キャーッ! ネズミ!?」 「えっ、ネズミ!? いや、ウサギだ!」 「イヤーッ、でっかいネズミーっ!」  失礼なさけび声を浴びながら、金属探知機の間をもちろん引っ掛かることなくすり抜け、猛スピードでエスカレーターを二段飛ばしで駆け降りる。  そして最後、ちょうどエスカレーターを降りる手前の大神君の頭くらいの高さまで来たその時。  後ろ足で見事な水平ジャンプをして、数メートル先の彼の肩にバッと乗った――はいいけど、やっぱり背中側に滑った――! 「!?」  ビックリした大神君が振り向き、その拍子にサングラスが鼻にズレる。  相変わらずうっとりするほど綺麗な、琥珀色の瞳……。  彼はそのまま両手を伸ばし、逆さまになって落ちてゆく俺を見事な反射神経でキャッチした。  そのままお尻を包み込むようにしっかり抱き直されて――大神君が何事もなかったように前を向く。  静かにエスカレーターを降りて少し歩いたところで、彼はズレたサングラスの上から、マジマジと俺の顔を眺めた。 「……? まさか、兎原さん?」  そうだよ、俺だよ。  鼻ヒクヒクのジェスチャーで答えると、大神君の後ろから空港職員の人がやってきて、はりついたような笑顔で言い放った。 「お客様、そちらのウサちゃんのお飼い主様の方ですか? 申し訳ございませんが、機内への動物のお持ち込みはご遠慮頂いておりまして……」 「あ、ハイ……すみません」  なんてことだろう。  ……俺は文字通り、体を張って大神君の出国を阻止してしまったのだった。 □ □ □  俺という機内持ち込み不可のお手荷物が現れてしまったせいで、大神君は結局、出発ゲートの外に追い出されてしまった。  俺とはいうと――柱の陰に置いてきた洋服を拾って貰い、トイレで着替えてから、やっと人間として大神君に対面したのだった。 「ほんと、ごめんな……。でも、大神君が事務所辞めて韓国に帰っちゃうって社長に聞いて。……俺、居ても立っても居られなくなっちゃって……」  出発口のすぐ手前でしょんぼり耳を倒して謝ると、目の前に立っている大神君は、不思議そうに首を傾げた。 「……? 俺、まだ辞めてないです……社長が辞表受け取ってくれなくて。今帰ろうとしてるのは、遭難事故のことで両親が心配してたので、一度戻ろうかと……」 「はぃい……!?」  あ、あんの狐社長、俺を騙したな……!?  俺と大神君が主役の脳内ドラマを演出するために、動かされたと言うべきか。 「なんだ、恥ずかしい〜、俺、てっきり……っ」 「……。でも、辞めようと思ったのは本当です」  サングラスを外した大神君の端正な顔立ちがうつむく。 「……だって俺は結局、自分の私情だけで日本にきて、アイドルをしてた人間なんです。……その上、死にそうになってたとはいえ、本当に情けない所を見せて……兎原さんに対する俺の、気持ち悪い感情も……一生黙ってるつもりだったのに、本人にぶつけてしまうなんて……」  凛々しい眉が苦悩に寄せられて、長いまつ毛が震えた。 「恋愛がらみのスキャンダルなんて一度も起こしたことがなくて、グループ愛に溢れてた、完璧なアイドルの兎原さんからしたら……こんな人間がアイドルをやっているなんて許せないですよね。……だから、俺はもう……辞めるしかないと思って……っ」  え〜〜〜……。  俺はそんな清廉潔白なアイドルだったつもりは無いんだが……。  そりゃある程度自制はしてた。  仕事がらみで会う女優さんとかにそういう風に接するのは良くないとは思ってたし。  けど、それ以上に単純にモテなかったのと、女の子構ってる時間がなかったのと、男同士でつるんでる方が多かった、ってだけなんだけど、大神君、俺のことすげぇ美化してる……?  ビックリしつつ、俺は両手を左右に振った。 「いやいやいや。私情、全然いいと思うけど……? そりゃあ、世界一のアーティストになりたいとか、壮大な目標を持ってるような奴だって、この世界にはいるけどさ。でも、大神君は、今目の前にあることを人一倍努力して取り組めるタイプだろ。それに俺、大神君のあれ……気持ち悪いなんて思わなかったよ……。――むしろ、大神君が俺をそんなに好きでいてくれたんだってこと知って、嬉しかった。ユニットだって組みたいって言ったのは本当だし……」  一気にまくしたてた後で、少しためらってから、俺は付け加えた。 「だって俺は……大神君のこと、あの無人島生活でさ……好きになってたから」  目の前で大神君の動きがカチーンと止まった。  そのまま、時だけが何秒、何十秒も経過していく。  ど、どうしたんだろう。 「だ、大丈夫……?」  声を掛けると、彼はやっと顔を上げた。  綺麗な顔を見たことないぐらいくしゃくしゃにして、ボロボロ涙をこぼしている。 「良かっ……」  その内鼻水まで垂らしそうだったので、見かねて俺はジーンズのポケットからハンカチを出した。  ウサギの刺繍の入った、俺のイメージカラーのグリーンのやつだ。 「……そのハンカチ、バニーボーイズのファーストライブ記念のグッズだけど、大神君に貸すよ」 「うぅ……欲しいです……」 「ダメだよ。俺の宝物だし。また帰ってきた時に返してくれ」  大神君は大きく頷いて、リュックの持ち手を片側だけ外して前に持ってきて、大事そうにハンカチをリュックにしまった。  空港には、仁川行きの飛行機の出発が近いことを知らせる空港アナウンスが流れ始めている。 「……そろそろ飛行機の時間なので、俺、行きますね……」  うさぎみたいに目を赤くした大神君が、名残惜しそうに俺の顔を見た。 「……うん。ほら、乗り遅れるぞ!」  背中を押して、俺は彼を出発口に向かわせた。  大神君は前に出かけたけど、すぐに振り向いて両腕を伸ばしてきた。  瞬時に俺の身体がぎゅっと強く抱き締められ――唇に、触れるだけのキスが降った。 「!?」  ギョッと驚いた俺を残して、大神君の背中が保安検査場の列に消えていく。 「……今の人、男同士でキスしてなかった……? てかあれ、ウルフの目立ってた男の子じゃない……?」 「大神君……? 相手、バニーボーイズのリーダーの人だよね?」  周りがザワザワし始めたけど……どうしても最後まで見送っていたくて、俺はその場を離れられなかった。  社長だって公認だし、まあ、いいか。  開き直って、両手を口にあて、大声で呼び掛ける。 「――帰ってきたら、一緒に歌おう。それで、結婚しようぜ!」  握手会でも、プロポーズでも、言えなかった返事。  真っ赤になって振り返った大神君に、俺は大きく手を振った。  ――翌週の週刊誌に、キス写真付きで載ってしまう俺の初・熱愛スキャンダルのことなど、知る由もなく――。 (終)
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