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人生は、苦しい。
例えば朝起きたら持病の腰痛が痛み始めたり、お腹が空いているはずなのに、妙に食欲が湧かなかったり、そんな体調にもかかわらず、受け継ぎたくもなかった店を開けなければいけなかったり、仲が良く、尊敬していた幼馴染がとっくの昔に墓の中に入ってしまったり、苦しいことだらけだ。
本当は何もせず1日安静に寝ていたいのだが、体が無理をしてでも動くときは勤勉に働け、という母の教えは骨身にまで染みていて、私の怠惰を許さない。
店の前を掃いて掃除し、陳列棚の埃も掃う。毎日毎日繰り返している動作なので、そんなに時間もかからずに終わる。仕入れの日でもないので、あとは店内の椅子に座って、客を待つだけだ。
椅子に座ると同時に、今度は膝が痛み始める。
「こっちにもがたが来たかね」
忌々しいことこの上ない気分になりながら、昔、知り合いに教わった、私でもぎりぎり使えるぐらいの超初歩的な治癒魔法を膝にかける。
呪文の詠唱を終えて、膝を一度伸ばし曲げてみる。さっきよりかはましになったが、まだ少し痛い。多分3日と経たずにぶり返すだろう。最悪、商品に置いている薬草や、治癒の力が込められている魔道具を使うしかないかもしれない。
恐らく上級の治癒魔法を使えば、腰痛も膝の痛みも治るのだろう、と思うと、自分の金欠が恨めしい。そんな高価な治療、赤貧の私には受けられない。
「お客様は神様だからね」
と母に言われながら育った私だが、半ば強制的に引き継がされた店に訪れる客は、ろくすっぽ金を落とさないので邪神の類だとさえ思えてくる。
しばらく鬱々とした気持ちで店内を眺めていると、店に近づいてくる男たちの声が聞こえる。声から誰が来ているかはすぐに分かった。
また、あいつらか。神様として入店してくる前に、今出せる分のため息をまとめて出しておく。ため息をつき終わった頃に、どやどやと数名の男たちが入ってきた。
数年前からこの村に駐屯している、『革命軍』。都で挙兵し、国王とその臣下を殺害。権力を奪取した者たち。
たった1人の王宮付魔法使いが、長年の王の苛政に心を痛め、遂に反乱を決行。彼が作った革命軍は、最初こそ弱弱しい勢力だったらしいが、ひとたび軌道に乗るとあっという間に王制を打倒するまでの勢力に拡大。
都では今、愚王が課していた、高すぎる税金が免除され始めて、かつての活気が取り戻されつつあるとかなんとか。
まあ、どこまで本当かは知らない。こんな田舎村に噂レベルで届いてくる話が、完全に正しいはずもない。
大体、目の前で商品を無遠慮にべたべた触っている野郎どもは、私の目にはチンピラとそう大差ない。
私がそれなりに苦労して採取してきた薬草を、男たちは揉んだり光に透かして色を見たりしている。薬草は、中のエキスを患部に塗りこむことによって、効果を発揮する。揉むまでしたのなら買い取ってほしい。
過度に触った場合は、買い取ってもらう、という旨の注意書きをしっかりと大きく棚に貼りだしている。が、完全に無視している。
文字が読めない奴らは珍しくもないが、流石にこの人数がいて、1人も読めないのはありえない。以前一度は口頭で注意している。要するに、舐めているのだ。
男たちはその後も店内を練り歩き、商品を持ち上げたり、大きく笑い声をあげたり、値札を見てわざとらしく顔をしかめたりしている。その顔を見て、嫌な予感がした。
「店主」
鎧のような筋肉を持つ、浅黒く日焼けした男、イアンが私のもとにやってくる。手に持っているのは治癒力の込められた、杖状の魔道具。
治療できる傷の程度はそれほどでもないが、中に込められている力を全て使いきるまで、何度も使えるもので、この店の中では割と仕入れ値が高いものだ。
「何でしょうか?」
「この魔道具は少し高すぎる、もう少し安くしろ」
今すぐこの男の首根っこをつかんで、店の外にポイと捨ててやりたい。
そんな暗い欲望を抱きながらも、私はあくまでも事務的に答える。
「申し訳ございません。そちらについてはこれ以上のお値引きはできません」
「我々は上からの命令により、この村の治安を守るために派遣されている。今日もこれからこの村の畑に被害を与えている獣を狩りに行くところだ」
世話を見てやっているのだから、安くしろ、ということだろうか。治安を守るというのなら、まず自分の首を絞めてほしいものだ。
大層わざとらしく、仰々しく言う男に対して、後ろでこちらを見てきている男たちの顔はにやにやしている。1人の男の手が、腰にさげている剣に触れている。
「かしこまりました。では今の値段から」
「出せるのはこれだけだ」
男は私の目の前に3本の指を立てた。
出来れば4本にしてほしかった。私が提示しようとしていた仕入れ値そのままの値段すらも割り込んできた。
舌打ちをしそうになった自分を慌てて制御し、忸怩たる思いで男から3枚の硬貨を受け取る。男は礼も言わずに仲間たちのところに戻る。ったく面倒くさい、という言葉を男が呟くのを私は聞き逃さなかった。
強盗の方が幾分ましだ。
いつの間にか止めていた息をゆっくりと吐き出す。男たちはまだ店の中を練り歩いている。鬱々とした気持ちでそいつらを眺めていると、また数人客が入ってきた。そいつらの顔を見て、さらに気分が沈む。
昔からこの村に住んでいる人達なのだが、革命軍の男たちに、卑屈さを感じるほど愛想よく挨拶していく。革命軍の男たちもちやほやされるのは嫌いじゃないのか、軽く挨拶を返す。目上から目下に向かっての短い挨拶だ。
村人たちは店の片側に用意してある、軽食を出すためのカウンターに座る。面倒臭いのは山々だが、少なくともこの男たちは今まで一度も値切ったことがないので、大人しく注文を聞くことにする。父と母が、商品を売るだけではやっていけない、という理由で用意したカウンター。調理場と隣接させているそれも、もうボロボロだ。
全員が朝食がわりの食事と、あと酒を頼んでいく。以前はたとえ休日でも朝から酒を飲むことはなかったのだが、時代が悪いせいか、最近では消費量が激しい。
悲しいことだが、店主としては頼まれたら出すだけだ。床に置いている酒瓶を手に取り、コップに注ぎ込み、各人に振舞う。客達がお互いにやかましく話している間に、私は食事の準備をする。火炎魔法の力が込められた調理台の火力が弱くなっているのに気づく。経年劣化だろう。
せめてこの客たちが、毎日利益の高い肉料理とかを頼んでくれると、色々な設備を修繕できるのだが、この村で貧困にあえいでいるのは私だけではない。
豆と薬草と小麦粉で作った団子を入れて、煮込んだだけのスープをカウンターに出す。その頃には客たちは既にほろ酔いの体だった。
男たちは大して美味しくもない料理を口にしながら、酒を飲み続ける。多分食事は腹が膨れればそれでよくて、彼らの目的は酔いつぶれることなのだろう。
遠い村に住んでいる革命軍の誰それが、村人を苦しめていた巨大狼を討ち倒した。
かつての王都で活動している革命軍の幹部が、大きな救貧院を建てた。
国王派の残党が婦女を誘拐していたのを、革命軍が食い止めた。
そんな風の噂レベルの情報を客たちは話し続ける。革命軍は凄い、高潔だ、神だ。打倒された王制に対しては鬼畜、不真面目、犬畜生、まるで正反対の評価。
まだ店の中にいた革命軍たちはそんな村人たちを見て、満足そうにした後に、やっと退店していく。本当に獣害の対応に行くのか、甚だ疑問だ。今日この店で事実上強奪していった商品を、どこか別の店で高値で売り捌いたりしている姿しか思い浮かばない。
革命軍が退店してからもしばらくは、村人たちの酒宴が続いた。何でもいい。酔えればいい。雑な飲み方である。心の底では嫌っている奴らを、表面上でも褒めたたえるのは、苦痛なのだろう。
この前成人したばかりの、私から見たらまだまだ男の「子」と言っていいぐらいの若者まで、周囲からの煽りを受けて、一気飲みを始める。
「やめさせな、死ぬよ」
子供を煽った男たちを、厨房から軽くたしなめると、流石に初心者にこの飲ませ方はまずいと思ったのか、もういい、やめろ、死ぬぞ、と止め始める。だが、青年は既に大分酒が回っていたのか、制止も聞かず飲み続ける。
年長者が見るに見かね、酒の入ったコップを取り上げる。青年はふらふらとその場でたたらを踏む。私はやばいと思って、床に置いてあった木桶を手に取ったが、時はすでに遅く、青年は思い切り先ほどまで食べ物だったものを床にぶちまけた。
軽く鼻でため息をつき、カウンター側に回る。客たちはすまん、すまんと私に言いながら、青年の介抱を始めている。いいから水でも飲ませときな、と水差しを指さす。日々の仕事だけでも面倒臭いのに、汚い仕事を増やさないでほしいと思いながら、ぼろ布で床の掃除を始める。
吐瀉物は当然水分が多く、中々拭きとれずに苦戦していると、水を飲み続けた青年がまだ苦しそうに呻いているのが見えた。
「少し落ち着いたら外に出しな。風にあてるんだよ。店の中にいてこの匂いを嗅いでたら、気分なんて良くならん」
男たちは私の言葉を聞いて、まるで子供の玩具のように、首を縦に振り続ける。だが誰も落ち着いたかどうかを判断する自信がないのか、動こうとしない。青年はまたうめき声をあげる。
指示を言って聞かせるのも面倒臭くなり、床の掃除を中断して、青年の方に近づく。その瞬間、椅子に座らされていた青年が苦しそうに大きく胸を反らし再び床に吐いた。吐瀉物が私の足にもかかる。
周囲の客がすまん、すまん、とさらに謝ってくる。床に思い切りぼろ布を叩きつけてやりたい衝動を堪え、謝ってくる客を適当にあしらう。謝罪をするぐらいなら、床の掃除を始めてほしいのだが、全くのでくの坊だ。
更に面積を広げたゲロの海を掃除する。ゲロは案の定、布を通して私の手にも触れた。
その気持ち悪い感覚を覚えた時、自分の心がとてつもなく摩耗し、疲れていることを久しぶりに自覚する。
今すぐにでも、この場から永久に逃げ出したかった。
革命軍びいきの愚かな酔っ払いどもが、平身低頭しながら帰っていった後も私はしばらく床掃除を続け、終わったころには昼前だった。
商品棚から一番安い疲労回復用の魔法薬を取り出して、一気に煽る。生ぬるく、かつ、薬なのでまずいが、それでも喉の渇きは癒えるし、飲むと飲まないで疲労の感じ方がほんの少しは変わる。
だがどんな即効性のある薬でも、今の自分の中に溜まったどす黒い疲れまでは取れまい。
両親が死に、不本意ながらも渋々店を受け継いでからこの方、生活が上向いたことはない。特にここ数年はどこもかしこも景気が悪く、食ってくのがやっとだ。
それでもまだ、食えているからいい方ではあるのは知っている。もっと貧しい立場に置かれている人の話は、どれだけ革命軍が人の口に戸を立てようとしても、自然と耳に入ってくる。子供を売りに出すしかない、というレベルの貧しさなんて私の子供の頃にはそう多くはなかった。
だからこそ一応人間らしい生活を営めている自分が、文句を言うのが何となく憚られる。
鬱々とした気持ちで椅子に座っていたら、店内にまた人が入ってくる。小汚いローブを着て、ひげも剃っておらず、やつれた顔をしたその客が、古くからの友人であることに気づくまでに、少し時間がかかった。
「ティム」
私が呼びかけると、ティムはうつろな目で私の方を向く。彼は寒さをこらえるかのように、体を揺らしている。店内を歩くたびに床にティムの頭から零れ落ちたフケが落ちる。口は半開きで、履物は何年同じものを使い続けているのだろうか、既に履いているというより、布を引きずっているという体になっている。
かつてこの村を守るよう、領地管理を王から任されていた魔法使いの姿とはとても思えなかった。
ああ、とティムの口から言葉にもなっていないような声が漏れる。まるで何年もまともに人と話していないように。思えば私がティムの顔を見るのは、大分久しぶりだ。村の中にとどまっているというのは、何となく把握していたが、その間、あまり見ていない。
恐らく、極力人に会わないように過ごしていたのだろう。今のこの村ではティムの味方をするような人間は、ほとんどいないのだから。
ティムは自分の口から出た、その無様な音に自分でもびっくりしているのか、喉に手を当てる。まるでそうすれば正しい音を出せるかのように。また何かを言おうとして、今度は何も言えないのか、焦ったような動作をする。
「大丈夫、ゆっくり話しな」
私はそう言ったが、ティムを余計に焦らせてしまったのか、あるいはプライドを踏みにじってしまったのか、苦々しい表情をして、しばらくティムは自分が言葉らしい言葉を、話せるようにもがく。
たっぷり30回ほど瞬きをしたぐらいで、ティムはようやく口を開いた。
「布、売ってくれ」
それはどんな布か、ぼろいものでいいのか、綺麗なものか、この店に今置いているものから選んでいいのか、それとも別途仕入れる必要があるのか、そんな諸々の疑問は脇に置いて、私はとりあえず店の裏に回る。折りたたんで棚に置いていた、若干埃の浮き始めている布数点の端っこを、ハサミで切り取る。
店の中に戻って、ぽつねんと待っているティムの前に、その端っこ数点を差し出す。ティムの匂いが鼻をついた。臭い。何日体を清めていないのだろうか。
「どの生地がいい? 今店にあるものはこれだけだから、他の布がいい場合は、仕入れを待つ必要あるけど」
私のその言葉にティムはしばらくの間無言だった。自分の中で考えていることはあるけれども、上手く言葉にできないのか、またしばらくもどかしそうにする。ティムはしかし途中で諦めたのか、手を何故か厨房の方にかざす。そっちの方向を向く。ティムが何を指し示しているのか、少しの間分からなかったが、古びた雑巾の方を見ている。
「何だい? これ? こんなのでいいの?」
私がそれを手に取りながら言うと、ティムは頷く。ぼろい方がいいと言うのなら、いくらかストックはある。私は掃除用に置いていた布切れを数枚取り出し、ティムに渡す。
「ありがとう」
ティムはそう言いながら、懐に手を突っ込んで、何かを取り出す。私の前に差し出された拳の中に収められていたのは、薄汚れた銅貨だった。
「いいから。こんなの商品じゃないから」
私はそう言うが、ティムは私に頑なに金を渡そうとする。まるで、憐れまれるのはごめんだ、と言わんばかりに。
金を渡そうとする意思が薄れそうになかったので、私も最後にはあきらめざるを得なかった。
「分かったよ。でも、この金はそのぼろ布の値段としては、高すぎる。今何か作ってやるから、それ食べな。その料金としてなら受け取る」
その言葉を聞いて、しばらく彼は迷った風にするが、妥協点としてはあり、ということで納得したのか、ようやく頑なな態度が無くなった。私は再び調理場に入る。精のつくものを食べさせてやろうかな、という思いが芽生える。でも、すぐに自分の中で噛み殺した。それこそ施しだ。あの態度を見るからに、そんなことをしたらティムは、また意固地になってしまうだろう。
結局、銅貨の量に見合った、この店の中でも安い方の食事を提供することにした。黒パンに、軽く煮込んだ豆を入れただけのスープ。美味しいものではないが、それでもまあ一食分の価値はある。盆にのせて、カウンターに運んでやる。
だが、ティムはカウンターに近寄ってはこず、何故か商品棚のある1点を凝視していた。
私はティムに食事ができた旨伝えるが、全く動く気配がない。まるでそこに化物や幽霊の類でもいるかのように、視線を逸らさない。
明らかに様子がおかしい。私は厨房から出て、ティムに近寄る。
そこで私は自分の失敗を悟った。
あの野卑な男たち、革命軍がこの村に初めて来た時に無理やり置いていった書物。革命軍の功績と素晴らしさが、胃もたれするぐらいに記載されているもの。書物の癖にとんでもなく安く、明らかに広告、宣伝のために作られたものだと分かるそれを、店内に置いていることを愚かにも忘れていた。
ティムの視線に何かの力があったら、その本に穴が開いていたことだろう、それぐらい熱心にティムはその本を見つめ、次いで私を見る。視線に怒りはない。悲しみもない。ただただ虚無の視線。そんな視線を前にして、私は神様の前に、無理やり引きずり出されている罪人の気分になった。
その後しばらく、気詰まりな時間が続く。
最終的にティムがゆっくりと、音も立てずに出ていくことでその時間は終わった。ティムが店の外に出て見えなくなった時、解放された、と思ってしまった自分がいた。その自分に気がついた時、死んでしまいたくなった。
ティムに出そうと思っていた食事を、捨てるのももったいないので自分で食べ始める。ごめん、と心の中で謝る。
全てはあのごろつき共のせいだ。
体制側にいて、かつてこの村の管理を任されていたティムを、革命軍は見逃さなかった。この村に彼らが来た時、ティムはすぐに魔法使いにとっての命と言ってもいい杖を、没収された。
杖を失い何者でもなくなったティムを、最初の頃は村民も同情的に見ていたが、彼が今後何も自分たちに利益をもたらさない存在だと分かり始めると、手のひらを返し始めた。雨が降らない時に、水魔法を唱えられない魔法使いに何の意味があるのか。
精力的に活動して人気者だったティムを、嫉妬心から蛇蝎のごとく嫌っている一部村民が、彼に対する悪口雑言を並べ立ていたのを見たこともある。疫病が蔓延した際、ティムの治癒魔法も虚しく、死んでいった人達の家族も含まれていたが、今振り返ると、あれは革命軍側からそうするよう指示もあったのでは、と思う。何にせよ、彼が『村を守る格好いい魔法使い』、という立ち位置を追われ、かつその立場にいたことを完全に忘れ去られるまで、そう時間はかからなかった。
思い出しながらスープを飲み終え、一息つく。仕方なかったのだ。そう思う。この本を店に置け、と言われた時、彼らは今みたいな軽装ではなく、全身びっちり防具もつけていて、何より数限りない戦いを経験していたのか、殺気立っていた。抵抗していたら殺されていたことだろう。
膝の痛みがぶり返してくる。床掃除やら何やらをこなしているうちに、また痛めてしまった。治癒魔法をかけ直す。思えばこれもティムに教わったものだ。
「超初歩的なものだったら、簡単にできるし、覚えておいた方が得だよ」
そう言って若かりし頃の彼は、同じくうら若き乙女だった私に対して、この魔法を教えてくれた。
彼は格好良かった。異性として憧れたことはなかったが、それでも人間として尊敬していた。代々この土地を管理している魔法使いの家系に育った彼は、幼いころからこの村を守る責務のようなものを感じていたし、しかもそれを全く負担にも思っていなかった。
家に伝わる魔法使いの杖を持ちながら、颯爽と村の中を縦横無尽に駆け回る彼。その家に生まれた宿命のようなものを重く感じないのか、と不思議に思うことがあった。両親が意図せぬタイミングで死に、村民から、村から商店が無くなると不便だ、とせがまれて、半ば仕方なしにこの店を継いだ私とは全く違っていた。
ティムはそんな疑問を口にした私を前に笑ってみせた。
「自分が必要とされる居場所が、予め用意されているようなものだったからね。ある意味では幸福なことだと思ってるよ」
幼少期から付き合いのあった魔法使いと、若干心理的な隔たりが出来たのは、この言葉を聞いた時だろうか。いや、もしかしたら、もっと前かもしれない。
何にせよ、ティムが本心からこの言葉を言っていたのだとしたら、今のティムの人生は恐らく彼にとって地獄だろう。
食器を片付け、店内に汚れがないか習慣でチェックしてしまう。革命軍の置いていった本が目に入る。自分の中に不意に沸き起こった衝動のままに、その本のもとに近づき、手を伸ばそうとして、衝動のままにしようとしていることが、自分にとっての命取りになるかもしれないことに気づいて、手を止める。
食事をとったばかりなのに、体中に疲労を感じ、脚は鉛のように重く感じられた。
その後、数名の客の応対をした。ある者には値切られ、ある者には以前滞納されていた支払いの一部を貰った。金払いの中に人間の多様性を感じながら、さあ、そろそろ店じまいにするか、と考えていると、耳にやかましい男たちの声が入った。
声が汚物のように感じられたので、店の前に置いている開店、閉店を知らせる札のもとに行き、出来る限り自然な動作で閉店の方に裏返す。
「え、あ」
その声を聞いて、私は思わずそちらの方を向いてしまう。革命軍はいなかったが、その腰巾着の村人4名がいた。今から一杯ひっかけようとしていたら、その店が自分たちの目の前で閉店した。絶望的な表情だった。酒にありつけないのがショックなのだろうが、流石にそこまでの顔をするのは大げさすぎると思う。
酒浸りにならねば生きていけないのもどうかと思うが、流石に可哀そうな気がした。
「一応、今、店じまいするところだったが、一杯ひっかけるぐらいだったら付き合ってやるよ」
そう言って再び私は、札を『開店』の方に裏返した。ありがとうございます、と言いながら男たちは店内へと入っていく。
私は厨房に入り、とりあえず酒を準備した。一番安い葡萄酒を人数分のコップに入れて手渡すと、全員が勢いよくそれを飲み始める。料理は頼むのかい、と聞くと、男の1人が
「適当に、安いの」
と言ってくる。この店で一番安いものと言えば茹でた豆なので、さっさと豆を袋から出して鍋で茹で始める。
男たちは酒を飲みながら、話を進める。
「いや、イアンさんの太刀筋にはしびれたな」
また、革命軍の話か。私はうんざりしながら沸騰した湯の中で踊っている豆を見つめる。出来るだけ心を無にするしかない、と心に決める。
速かった。鋭かった。小型とはいえ、魔獣が3匹瞬く間に真っ二つ。ああ、はいはい、凄いですね。そんな投げやりなことを考える。全然無になりきれていない自分の心に気がつく。
私ぐらいになると、魔獣をちゃんと倒しに行っていたことに驚いてしまうぐらいだ。
「それに引き換え、あの魔法使いは何だい?」
話が変わって、しかしそれでもなお私の苛立ちが多分しばらく続くことが予想できた。
「あのズタボロな恰好な。一体何年同じ服着てるんだっていう」
「全く。あと匂うし」
「口ぼさっと半開きにしながら歩いてるしな。バカみたいに」
そう言うと客の1人がティムの歩き方を真似するように、わざと変な風に歩き始める。客は笑う。私は全く笑えない。今日あったばかりで、容易にその姿が想像できたので、尚更だ。
「おまけにあのババアの墓にすがりついて泣いてるしな」
その言葉が耳に入った時、私の体の中で何かが動いた。
「ババアってのは誰のことだい?」
気づけば私はそんな質問を口にしてしまっていた。客たちは、酒に酔った時特有のだらしない笑顔で答えてくる。
「コールマンですよ。シャーロット・グレイス・コールマン。ほら、数年前に死んだ、あの飲んだくれ」
その男、トム・ウィリアム・エドワーズの赤くなった顔に沸騰した湯を、ぶっかけずに済んだのは、年齢によるものだ。最近では怒っても、中々体がその怒りについてきてくれない。
「農作業を終えた後、皆でちょっとだけ2つ3つの村のルールについて、今後どうするか話し合ったりしてたんですけど、そん時に、あのマーシャルがフラフラと歩いてまして。このところあまり姿を見なかったからとっくの昔に死んだかな、と思ってたんですけど、まあ、人間手のは案外しぶといもんですね。
それでイアンさんに杖を取り上げられたから、ろくなことはできないとは思うんですが、それでも人間自分の意思で動ける間は、結構な悪さもできるわけで、念のため尾行したわけです。
墓地に入って行ったんで、何をするのかしばらく分からなかったんですが、あのシャーロットの墓の前でいきなり屈んで拭き掃除を始めたんですよ」
何が面白いのかトムはからからと笑い続ける。
「何となく気になって、俺たちも近づいて声をかけようと思ったんですけどね。でも、そこであのマーシャルの野郎が俺たちに勘づいて逃げ出しやがりました」
「逃げ方が最高に無様だったな」
先ほどティムの歩き方を真似した客がそう言いながら、またしても立ち上がって、腰の引けた走り方を再現する。その走り方で逃げるティムの姿を、私ははっきりと思い浮かべることができた。
「マーシャルとコールマン。ま、ある意味お似合いですね。1人はずぅっとこの村を王の命令によって虐げてきた魔法使い。もう1人は酒浸りでろくに仕事もできなかったババア」
「実は案外、生前は馬が合ってたのかもな」
「あの2人が村から離れた森で乳繰り合ってた、とは聞いたことがあるな」
「マジか。じゃあ、ガキとかもいたりして」
ぐはは、と男たちは笑い続ける。
シャーロット・グレイス・コールマン。
私の旧友。幼馴染。
もちろん、そんなことをこの男たちは知らない。友人関係だったのはもうずいぶん前の話だし、都会で暮らしていた彼女が村に帰ってきてからは、ほとんど話したことがないという状態だった。
何よりこの男たちの言う通り、晩年のシャーロットはとても人に褒められたような生活はしていなかった。
夫も息子も疫病と革命の煽りで失って、肉体的にも精神的にもボロボロになっていた彼女。
何人かの村人は最初こそ同情的だったが、残っている僅かな財産全てを酒に回すような女に、いつまでも付き合っていられるわけがなく、孤立する時はあっという間だった。
この店にも、何度か酔いつぶれた状態で彼女は訪れてきた。心配ではあったが、少し酒をやめるよう注意するだけで、こんな店を受け継いでのうのうと暮らしている奴に言われたくない、と怒鳴り声をあげてくるので、いつしか私も彼女が来ると、体が強張るようになっていった。
だからこの男たちの彼女に対する評価は正当なものだ。
正直未だに信じ切れないような噂だって、耳に入ってきてはいる。
見下されてしかるべき存在。そんな人間に彼女はなり下がっていた。理性は私にそう告げる。
だが、感情は別だった。
私は火にかけていた鍋を持つ。いつもならお湯を捨てて、豆を取り出して、適当に塩を振りかけて出す。客たちは酒のつまみはまだか、と犬っころのように待っている。少し良心の呵責は感じたが、怒りがそれに余裕で打ち勝って、私はその鍋を思い切り地面に叩きつけた。
一瞬の沈黙の後、客の1人が驚いた声をあげる。その声を皮切りに、呆然としていた者達も次々と口を開ける。どうしたんですか。眩暈でもしましたか。熱湯、足とかにかかってませんか。熱いだろうから動かないで。すぐに拭きます。
お預けを食らった料理の心配より、私の心配をしてくれている。そのことに気づいて、さらに私は苦しくなる。根は悪い人たちではない。家に帰れば子供や孫を可愛がるし、配偶者に愛の言葉だってささやく筈だ。でもそんなことはこの際、どうでもいい。
「黙れよ」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。4人の男たちは、一斉に押し黙る。こんなババアになっても、心の底から憎しみを込めて言葉を放てば、それなりに効果があるのだな、と頭の中の冷静な部分が感心する。
「わざわざ招いた後で、こんなこと言うのもあれだが、やっぱり今日は店じまいだ。帰んな」
その言葉に男たちはしばらく怯えたり、怒ったり、気遣おうとしている表情をする。最終的には1人が出口に向かい始め、それにつられて全員が出口へと歩いていく。
その時になっても私の怒りは、全然収まっていなかった。むしろ、鍋を床に叩きつけた時よりその勢いは強くなり、遠い山脈に住むと言われるドラゴンのように私の血管を駆け巡る。
怒りに呼応するかのように、シャーロットとティムの若かりし頃の姿が、脳裏に浮かんだ。
このまま村にいても先が見えている、と都会に働きに行ったシャーロット。それを寂しそうな顔で見送ったティム。
子供の頃、3人で一緒に麦畑の中で遊んで、将来の夢を話し合ったこと。
村人の1人が薬草採取の際に大怪我をして動けず、真夜中で自分の身が危ないにも関わらず、山の中に入って行ったティム。
お金に少し苦労していたシャーロットが、それでも都会で一生懸命働いて、いつか私の店よりも大きい店を建ててみるのもいいかも、とおどけていたこと。でも内心は不安で一杯なのか、表情に影が差したこと。
2人とも、上手くはいかなかった。1人は死んだし、1人は廃人同然。
世間的には強者ではない、どころか、究極の弱者だ。それでもあの2人は懸命に生きていた。周囲からの期待や流れに身を任せて、年だけ取ってくたびれながら、生きていた私とは、違っていた。
時代の波に寄り添って生きながらえている奴らに、あの2人を否定されるのは、無性に腹が立つ。激しい怒りのままに私は再び口を開く。
「あんた、ジャック・グリフィン・ウィルソンだったね。大きくなったもんだ。ガキの時分に、高熱を出した時にティムに治療されたことを、都合よくもう忘れてんのか」
私のその言葉にジャックは振り返る。表情と仕草から苛ついているのが分かる。何で、そんなことを言うんだ、という表情だ。
このバカどもからしたら、あの2人はそういう存在なのだろう。殴っても粗末に扱っても、暴言を吐いても許される、どころか下手をすると、そうすることが善行だ、と捉えている節すらある。
仕事もせず酒を飲む者は、不道徳な奴は自分と何の接点もない。
旧体制でそれなりの職を得ていた者は、一方的な悪だから自分とは別物だ。
そう思って、自分から遠ざけていれば、自分たちの安全な日常が守れると、心の底では思っているのだろう。
ジャックはしばらく何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わずに出ていった。あとの3人もそれに続いて出ていく。静まりきった店内の中、私は大きくため息をついて、しばらくしてから店頭の札を再度『閉店』の方にする。
大変なことをしてしまった、とは思っている。
革命軍は勝利を収めた今になっても、未だに旧体制をそれなりに恐れている。だからこそ、未だにこんな辺鄙な村に、イアンのようなごろつき崩れを置いているのだ。抵抗勢力が再度出たとしても、即座に潰せるように。
あの4人とはそれなりにいい付き合いをしてきたつもりだが、それでもティムをかばうような発言をしたことについて、密告の可能性はある。今日ぐらいの事件であれば、まさか命をどうこうする、ということもないだろうが、嫌がらせは頻発するかもしれない。経営に被害が出るかもしれない。
でも、少なくとも今はやってしまった、という後悔より、遂にやり遂げた、という達成感の方が大きい。
親から半ば強制的に継がされた店を、自分の手で終わらせることになるかもしれない。父母の泣き顔が目に浮かんだが、もう私はその親よりも長い期間、この店を切り盛りしているのだ。
だとしたら商売を頑張るのも潰すのも、私の胸三寸だ。やりたいようにやる。売りたくない奴には売らない。潰すべき時が来たら潔く潰す。汚いゲロの掃除をやって、自分の尊厳に傷を負わせるぐらいなら、今後は客に掃除させる。
ぼんやり店内を見ていると、革命軍が置くように指示した三流本が目に入る。昼の時と同様に、恐怖を覚えたが、私はその本に近づき手に取る。そして厨房まで移動し、その本をまとめて全てゴミ箱に投げ入れた。生ごみと混ざったその本はべちゃっという感じに汚れて、もう売り物には絶対にならない。無料だって引き取りを嫌がるだろう。
正直なところ、ここ数年もう売れたことがないのだから、置いておくだけスペースの無駄だ。大体村人はもう全員、これを持っているのだ。イアン達が問い詰めてきたら、しれっとそう言っておくことにする。
汚れた本をしばらく眺めている内に、経営方針を変えたい、という気持ちが唐突に湧いてくる。
思いのままにとったさっきまでの行動が、死んだような気持ちになりながら、店を維持することだけしかしてこなかった私に、主体性を齎したかのようだ。
もう、時代の波とか、失敗するかもとか、知ったことではない。私は自由に生きる。朝に感じていた疲れが、いつの間にかすっと抜けているのを感じる。
「まあいいじゃないの、私が店主なんだから」
誰に聞かせるわけでもない言葉だったが、口に出してみると、自分の中に驚くほど染みこんだ。立ち上がると、膝の痛みまで消えているのが分かった。
いつ動かなくなるかもしれない、自分の脚だが、とにかく今は動く。そのことが何故だか今日は少し嬉しかった。
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