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6. いたい
最初の駅にもどったころには、すっかり日が高くなっていた。ロータリーのベンチで老婦人が二人、並んでバスを待っている。
うららかな春の陽射しが、トラックの中に入り込む。
竜胆が僕の方を見た。見たまま、何も言わなかった。だが返事を迫られているということは、分かっていた。どっち側につくのか。
「僕は……、」
トラックの中で、死と向き合い続ける人生を想像した。悪くはなかった。だが、恐らくは〈黒川夏生〉の名前を捨てることになる。自分にはすべてを捨てるよりも前にすべきことがいくつもあるような気がした。
「僕は一緒には働けない。もう少しあの店で働いて、家にお金を入れる。高校にも通い直す。彼のお墓参りに行って、やれるだけの事をやったら、その後は、わからない」
「そうか。」
寂しそうに彼が笑う。
「……また会える?」
「会えるさ、」
たぶん、嘘だ。彼はもう、僕のコンビニには現れない。彼が言う〈オヤジ〉が、それを許すはずがないだろう。
僕はカバンに手を突っ込んだ。
「……竜胆さん、これ」
カミソリを取り出す。他人に見せるものではなかったので今まで気にもとめなかったが、隅にこびり付いた僕の血が、妙に汚く見えた。僕は慌てて言った。
「ちょっと汚れててごめん。……これは、竜胆さんに持っててほしい」
「俺に?」
彼はカミソリを受け取って、まじまじと見つめた。
「……僕が切らないように」
「わかった。」
言いながら、彼は窓辺にそれをかざした。そして不意にその安全ケースを外し、むき出しの刃で彼の人差し指の腹を小さく傷つけた。赤い血が玉のようになって現れる。
「いって〜!」
「うっそ!ばか!!竜胆さん何やってんの?!」
僕は思わず彼の手を取った。その手の重みを感じた瞬間、なぜか涙がこみ上げてきた。
「……ほんと、何考えてんの……」
「いや、ちょっと体験してみようと思っただけ」
「なにそれ……」
泣きながら彼の傷の手当をする。自分のために用意したはずの絆創膏を、初めて他人の手に巻き付けた。僕はそのまま、彼の手を両手で強く握りしめた。この手を離したくなかった。
「……、夏生。」
差し込む陽射しのように暖かい声で、竜胆が僕を呼ぶ。その指で、僕の前髪に触れる。
彼はそのまま体を寄せ、僕を抱きしめた。
体からたちのぼるタバコと香水の匂いの奥に、僕ははっきりと、自分と同じ土の匂いを感じた。
やがて竜胆は僕の髪に唇を押し当て、それから前髪をかき分けて、額に優しく口づけてくれた。その唇も、指も、彼が触れるところすべて、しびれるように温かかった。
長く長くそうしていた。時が来て、彼が離れていく。
離れたくない。
だが、口にはできなかった。
「――またな。」
彼の言葉に頷くのが精一杯だった。彼はいつもみたいに眩しそうに目を細め、ふっと笑った。
僕は後ろ髪を引かれる思いでトラックを降りた。
「こんどは僕の車で、どこかに行こう。迎えに行くよ」
もしそれが許されるなら。
「ああ。約束だ。」
「竜胆さんの家にも行きたい」
「そのうちな。」
それだけ聞いて、僕はトラックの扉をしめた。
閉めてしまうと、もう助手席側からは竜胆の顔が見えない。やがてトラックは出発した。アスファルトに積もった桜を舞い上げて、彼は去っていった。去り際にパン、とクラクションを軽く鳴らし、その音が僕の胸の中にずっと残り続けていた。
やがて駅から聞こえる電車の音に余韻はかき消され、僕は元いた世界へと戻っていく。
帰りの電車は乗客もまばらだった。窓から一瞬、踏切が見え、そしてすぐに消えた。僕はどっと体に疲れを感じた。揺れる車体が僕を眠りの世界へといざなっていく。
最初は抗った。だが、三つ駅を通り越したあたりで力尽き、やがて夢を見た。
僕はあの風穴に立っていた。
月は白く、花は綿雪のように降り注ぐ。
台に歩み寄る。そこには竜胆が横たわっている。
死んだように眠る彼の、そのまぶたにそっとキスをする。
彼はゆっくりと薄目を開き、微笑んだ。
「お前は俺に似ているよ、」
外から舞い込む桜の花が、白骨と化した彼の頬や胸元に降り積もっていく。
僕はそれを拭い続けた。涙があふれる。
「お祈りするよぉ」
アンナが歌い、僕も歌う。
くぬぶむうてぃきぬなばるみせ……
(終)
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