田中くんの夢

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 寝言に応えてはいけない。  夢と現の境目が、溶けてなくなるから。  なので、田中君は、寝言に応えることにした。恋敵である同級生を、あちら側へ送るために。  田中君は同じクラスの宮内さんが好きだった。さらさらの髪、長い睫毛、優しい笑顔、そしてなにより、存在感のない田中君にもクラスで一番のイケメン、黒谷君へ向けるのと同じ笑顔を向けてくれる。  田中君は少々ぽっちゃり気味で、栗色の癖っ毛がチャームポイントの愛すべき人物だ。  愛すべき人物なのだが、お人好しというだけの印象しか、クラスのみんなの記憶にはない。  そこそこに男子にも女子にも話しかけられ、まずまず楽しく毎日を過ごしているが、大の親友はと聞かれると、田中君本人もクラスのみんなも小首を傾げて考えてしまう。  そんな田中君が恋をした。  恋をした宮内さんは、学年でも目立つくらいかわいい。決して田中君のひいき目でなく、もてる。  ただでさえライバルは多いのに、宮内さんが頬を染めて見つめているのは、よりにもよって、文武両道、老若男女分け隔てなく優しい、爽やかで清楚な黒髪の美男子、黒谷君だった。  何事もそこそこ、真ん中らへんの田中君に、勝てるわけがない。  でも、どうしても、宮内さんのハートを射止めたい。田中君の果てしない野望が、めらめらと燃えた。  だから、黒谷君と仲良くなった。  同じ音楽を聴き、同じゲームをし、一緒の部活に入った。もちろん田中君はマネージャだ。かいがいしく黒谷君のサポートをし、アピールのために他のチームメイトのケアも怠らない。  もともと人懐こい笑顔の田中君は、そのかいがいしい働きぶりであっという間にチームになじみ、友達が増え、黒谷君も交えてみんなで遊びに行く機会が増えた。  他のみんなよりも、黒谷君に接触する回数を少しだけ増やし、ばれない程度にちょっとだけ多めに黒谷君を褒める。  気が付けば田中君と黒谷君は、誰もが認める親友になっていた。  季節が変わるころには、二人だけで遊び、お互いの家に泊まり、連休には旅行をするようにもなった。  時を同じくして、宮内さんは黒谷君に告白をしたらしい。  黒谷君は照れながら、秘密だぞ、とこっそりと田中君に教えてくれた。  田中君は心臓がずきりとしたが、心から喜んだふりをして、黒谷君をからかった。  焦るな、落ち着け、チャンスを待つんだ。  そう言い聞かせて、誰もが羨むカップルを、微笑ましく見守る親友の立場を維持した。  何度も黒谷君の家に泊まり、夜中までゲームをしたり、くだらない話をしたりして日々を過ごした。  そうこうしているうちに、田中君は気が付いた。  黒谷君は、真夜中に、寝言を言う。  時計が午前2時を回ったあたり、意外とはっきりといつも長めに寝言を言うのだ。  しめた、チャンスだ。  田中君は、こぶしを握った。何度か確認をしたが、同じ部屋に寝ていると十中八九、その時間に寝言が聞こえる。  眠る直前まで、田中君としゃべったり笑ったりして脳が刺激されているせいかもしれない。  寝言に、応えるチャンスだ。  しかし、そのためには、自分は真夜中まで起きていなくてはならない。眠ってしまってはどれだけ黒谷君が寝言を口走っても、意味がないのだ。  もともと早寝だった田中君は少しずつ夜型へと生活を変え、寝坊することが増えた。  無理に就寝時間を変えた所為で目の下に少しクマができ、やや肉付きの良かった体形もスリムになった。  丸く愛らしかった体形は鋭い目つきのワイルドな姿に、短かった栗色の髪は、癖のある緩いウェーブの長めの髪に。  さえないぽっちゃりとした田中君は、陰を背負ったミステリアスな田中君に変貌を遂げた。  清楚なイケメン黒谷君と並ぶと、クラスの女子が色めき立った。  あっという間に学年の女子が二人に熱視線を注ぐ中、目もくれずに、田中君は黒谷君を追い続ける。そんな二人に、ますます黄色い悲鳴が上がる。  あまりにわいわいと取り囲まれることに閉口している黒谷君を、田中君は昼休みに屋上に誘い出す。  立ち入り禁止の屋上の鍵を、こっそりと持ち出し、誰もいない広々とした空間で昼寝をする。  青く晴れ渡った空の下で、安心して眠る黒谷君が何事かを小さく呻く。  田中君は、すかさずに、そこへ囁きかける。  女子に追い回される黒谷君を田中君は巧妙にかばい、抜け道を探し、宮内さんをこっそりと連れ出して三人で帰れるように手はずを整える。  そんな細かい気づかいに、黒谷君はすっかり田中君に心を開き、お互いの家に泊まる回数もぐんと増えた。将来の夢、明日の希望、心に秘めた情熱を、夜更けまで語り明かした。  もちろん、田中君は果てしのない野望のことは、一言も口には出さない。  黒谷君が長い睫毛を閉じて、寝息を立てる真夜中、そっと顔を寄せ、耳元に囁く。 「宮内さんと別れてしまえ」 「……う……。宮内……さ……」 「もう、宮内さんには、興味がなくなる。そうだろ、黒谷君」  寝言に応えるというよりは、いつしか田中君の言葉に、黒谷君が寝言で応えるようになっていた。  カレーの匂いをかがせると、カレーの夢を見るようなものなのだろうか。  田中君はそんなことを考えながら、寝言で応える黒谷君がおかしくて、少しだけ頬を突いてみたりもする。  時々ふと、何をしているのだろう、と思わぬこともない。  黒谷君といるのは、楽しかったから。今までの「目立たないけどいい人の田中君」ではもうないのだ。  黒谷君と一緒にいる朗らかな田中君ですら、なくなっていた。  いつの間にか「頼もしいワイルド系田中君」と「守ってあげたい清純派黒谷君」として、女子の人気を二分している。  それでも、野望のためには、諦めるわけにはいかないのだ。  そんな日々を繰り返すうち、黒谷君にも変化が見えた。  煌めくような笑顔を周りに向けていた黒谷君が、次第に周囲に興味を示さなくなった。  宮内さんのデートの誘いも、断ることが増えてきた。  これは、田中君には少しばかり、誤算だった。  黒谷君、宮内さん、田中君。この三人で帰っていた胸躍る放課後が、黒谷君が宮内さんを遠ざけだしたため、成り立たなくなったのだ。  でも、これは、チャンスでもある。  誘うのだ、宮内さんを。  小さくガッツポーズを決めた田中君だったが、その試みは、首尾よくいかなかった。  阻まれるのだ。  田中君目当ての女子たちに、黒谷君に遠慮する宮内さん本人に、そして誰より、黒谷君に。 「一緒に帰ろうよ」  田中君がこっそりと教室を抜け出しても、いつの間にか隣に立って、黒谷君がうっすらと微笑む。  これは、何かが、おかしい。  田中君は少しだけ焦った。何ともないふりをして、もちろんと黒谷君と肩を組む。  今日も、黒谷君に、捕まった。  帰り道、日の暮れた街灯の下で、黒谷君が振り返る。 「宮内さんが、好きなんだ?」  ぎくりと心臓が跳ねあがる。  ばれたのだ。黒谷君に。自分が、二人の仲を邪魔をしたことを。 「そ、そんなこと、ないよ」 「本当に?」 「当り前だろ、親友の彼女を好きになるなんて、そんなこと」  ある訳がない。だって、宮内さんを好きだったから、君と親友になったんだ、黒谷君。 「ふうん。それならいいんだ。信じてるよ、田中君」  夕闇の中で少し淫靡に笑って、黒谷君が耳元で囁く。  田中君はぞくりと、身をすくませた。  これは、少し、控えなければ。宮内さんに声をかけるのを、今はやめた方がいい。せっかく築き上げてきたものが、台無しになってしまう。  田中君は、渋々、宮内さんに興味のないふりをした。  親友の彼女だから優しくするだけ、そんなクールさを務めて表に出した。  それが功を奏したのか、黒谷君は宮内さんとまた一緒に帰るようになった。  今までと違うのは、田中君は除け者なこと。黒谷君は宮内さんの背中をそっと押して、田中君にひらひらと手を振って、先に帰ってしまう。  後ろ髪を引かれるように、宮内さんが振り返る。  休み時間も、黒谷君は宮内さんと一緒にいることが増えた。  そんな時も田中君を置いて中庭のベンチに並んで腰かけ、黒谷君は宮内さんの耳元に口を寄せて何かを囁いては微笑んでいる。  窓から二人を見下ろす田中君の胸が、ぎゅっと痛んだ。  けれど、悪いことばかりでもない。  もしかしたら、と胸を躍らせることもある。  時々、宮内さんが、物言いたげにこちらをじっと見ているのだ。  今日も、教室で宮内さんが見ていたから、田中君は少し笑ってそちらへいこうとした。  歩き出そうとしたときに、どこからともなく黒谷君が現れて、宮内さんの前に立ち視線を塞いだ。そうして、そっと、田中君を睨むのだ。  ばれている、完全に。  効かなくなってしまったのだろうか。寝言の魔力は。  屋上で気持ちよく昼寝をしている黒谷君を見下ろして、田中君は眉根を寄せた。  確かに、最近、泊まる回数が減ってしまった。  もっと頻繁に、寝言に応えなくては。  ポケットに入れた睡眠導入剤を、田中君はそっと握りしめる。お昼の飲み物に少し入れれば、昼休みは眠くなるかもしれない。いや、帰り道で飲み物をおごってそこに入れれば、放課後、家に遊びに行ったときに思う存分、寝言が聞けるかもしれない。  でも、さすがに、薬を盛るなんて、できない。親友なのだ、黒谷君は。 「どうしよう」  子供のように無防備に、ほんのわずかに唇を開けて眠っている黒谷君の髪に触れて、田中君は頭を抱えた。こんなに自分を信頼している友人を、裏切るなんて、できない。  心が揺れた。 「どうしたの、田中君」  ぎくりとして、顔を上げる。  黒谷君が眠たげな眼で見つめている。  そっと手を伸ばして、田中君の腕に触れる。 「宮内さんに、何か、言われた?」 「や、何も、言われてないよ」 「そう?」  黒谷君は首を傾げて笑う。知ってるよ、というみたいに。  ある日、宮内さんに廊下の隅で呼び止められた。  あたりを素早く見回して、宮内さんは焦ったように早口で喋った。 「田中君、話があるの」 「え、今?」 「気をつけて、黒谷くんが……」  はっとして、宮内さんが振り返る。  廊下の角を、黒谷君が曲がってくる。ひたり、と足を止めて、黒谷君が笑った。  目はずっと、田中君を見据えている。 「今日の夜8時に、公園で」  小さく囁くと、宮内さんはぱっと後ろを振り返って、黒谷君に駆け寄った。  どきどきとした。  夜も更け、約束の時間の少し前に、田中君は公園に辿り着いた。  あたりはぼんやりとした街灯が点るだけで、心もとない。  宮内さんはまだのようだ。こんなところに女の子を一人で待たせるなんて、危なくてできやしない。  先に着いてよかったと、田中君はほっと胸をなでおろす。  こんな所で、いったい、何の話だろう。まさか、告白?  いや、学校では、ずいぶんと切羽詰まった感じだった。黒谷君に気をつけろとは、どういう意味だ。  黒谷君は、きっと、気づいたに違いない。俺の抱えた果てしのない野望に。  ざりっと、砂利を踏む音がして、田中君は振り向いた。  そこに立つ姿を見て、心臓が、止まるかと思った。 「やあ、田中君、こんばんは。どうしたの、こんなところで」 「く、黒谷君、ちょっと……散歩」 「へえ。ちょうどいいや、コーヒー、飲まない?」  黒谷君は両手に持っていたコーヒーを一つ、田中君に差し出した。  時計を見たが、まだ約束まで10分ある。  宮内さんが来る前に、ここを離れなきゃ。  こっそり会う約束をしたなんて知られたら、黒谷君はきっと怒るに違いない。  受け取ったコーヒーは少し温んで、飲み頃だった。ぐっと煽って、半分ほどを一気に飲み干す。  いつものコンビニのコーヒーがやけに苦く感じて、田中君は眉をしかめた。 「そんなに慌てて、どうしたの。もっとゆっくり飲まないと」 「え、ああ、なあ、黒谷君の家に行かない?」 「僕の家?別にいいけど、どうせ……」 「え、何?」  言葉尻が小さく掠れて、聞こえなかった。  田中君は身を乗り出して、聞き返す。 「どうせ、僕の家に連れて行くつもりだったから」 「あ?」  ぐらりと視界が揺らぐ。  カップが手から滑り落ちそうになるのを、黒谷君が掴んで止める。  どうして、黒谷君はコーヒーを2つ持っていたのか。まるで、ここにいるのを知っていたみたいに。  黒谷君を見ようとしたが、めまいがして、視線が定まらない。 「だから、ゆっくり飲んだ方がいいって言ったんだ」  耳元で黒谷君の唇が動いて何かを言っている。  膝から力が抜けて、田中君は黒谷君の肩に顔を埋めた。  思いの外、強い力が田中君を支えた。 「君がいけないんだ、田中君」  ぶつりと、目の前が、真っ暗になった。  田中君は低く呻いた。  頭が、痛い。ひどく痛む。 「う……」 「どうしたの」 「……宮内さんが」 「宮内さんは、いないよ」 「いない……?」  せっかく、宮内さんが忠告してくれたのに、捕まってしまった。捕まる、誰に、どうして。  思考はぐにゃりと歪んで、考えがまとまらない。  頭が割れそうだ。 「僕たちを引き離そうとするから」 「ごめん、俺が悪いんだ。宮内さんが好きだったんだ」 「そうだよ、君が、いけないんだ」  どこかで聞いたセリフ。  誰かが、寝言に、応えている。  田中君は眠りながら困惑する。宮内さんは、どうしたんだ。  確か、公園で。  公園で、どうしたんだっけ。  重く貼り付いたまぶたをこじ開けると、ぐったりとした宮内さんが遠くに見えた。  どうして、宮内さんが倒れているんだろう。  いや、これは、夢か。  頭が、痛い。ぼんやりと霞がかかる。  倒れた宮内さんの顔が、どろりと、崩れる。 「厭だ」 「大丈夫、ここにいるよ」  誰かの声がする。そっと手を握ってくれている。  柔らかく、温かい。宮内さんの手だ。  いつの間にか、向こうに倒れていたはずの宮内さんが、田中君を膝に抱いて微笑んでいる。  よかった、無事だ。  田中君は安心して、手を握り返す。  そっと誰かが、髪を、額を、頬を撫でる。  田中君はにっこりと笑んで、目を開いた。  黒谷君が、見ていた。  うっとりと目を細めて、綺麗に唇を歪めて、笑っている。 「俺は……どうして……」 「うちに来たいって、言ったじゃないか」  黒谷君が睡眠導入剤の箱を摘まんで、鼻先にことりと置いた。 「田中君、夜あんまり、眠れてないでしょ」  田中君の手を握ったままで、もう片手が、頬を滑る。 「だから、ゆっくり眠るといいと思って、さっきコーヒーに入れたんだ。入れすぎちゃったみたいだけどね」  そう言って、くすりと笑う。 「……な……何を言って……」 「田中君が、いけないんだ」  黒谷君の指先が、そっとまぶたを撫でる。 「寝ても覚めても、田中君が、ずっと僕を見てるから」  黒谷君の唇が、艶めかしく動いて、言葉を紡ぐ。 「夢の合間にも、田中君の声が、絶えず、聞こえるから」  生ぬるい指先が、唇をなぞる。 「だから、君がいけないんだよ、田中君」  ふっと影が落ちて、何かを叫ぼうとした田中君の口を、黒谷君の唇が塞いだ。  甘い熱に、夢と現の境は溶けて、田中君の意識はどろりと崩れる。 「君は僕のことだけ見ていて」  部屋の隅に宮内さんが転がっているのを、田中君は、まだ、知らない。  あるのは現の中の夢だけ。
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