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こんばんは。他に乗客がいるのは珍しい。
いや、もちろん、二等以上には他のお客もいらっしゃると思います。この航路は長いですから、たいていの人は個室を取るようなんです。私は、三等が好きなもので。だだっぴろい、閑散としたこの三等客室で、荷物のように転がって寝るのも面白いものです。旅情というんですかね……
音が気になりますか?
三等客室は、船のエンジンも海面もだいぶ近いのです。窓の、すぐ下はもう海面と言ってもいいくらいですから。寝ようとしても、頭に音が響くでしょう。ごおん、ごおん、ごおん……深く、呑まれるように響く音です。
いえ、旅慣れているというほどじゃありません。まあ、でも、好きでしてね。中でもやはり、船旅は良い。
音が耳について、眠れないようならば、外へ行きませんか?
甲板です。ええ、そう、夜は出るなということになっていますが、まあ、方法はいくらもあります。
夜の海ですか? 怖いことは何もありやしません。月が出ていれば黒い海のおもてに波が光って綺麗です。船の腹にしぶきが寄せてはきらりと、黒曜石のナイフのようです。ざざ、ざざ、ざざ……船が波を割って進むのか、波がなにかを切り裂いていくのか、次第に分からなくなっていきます。甲板で一人、じっと、その音を聞いていると、ときおり違うものが聴こえはじめることもあります。規則正しい波の音の向こうの、あの深い揺らぎの奥底から、まるで、歌のような……
ほら、宇宙には数学的な律があってそれは音楽の秩序に似ているというでしょう。夜の海というのはそういうものに近づける時間なのだなと、最初はそんなふうに思ったのですが……。違ったんですね。実際にそれは音楽だったのです。
ゆあーん、ゆよーん……
遠くで誰かが歌っている。ごおん、ごおんと海の底から響く音と同じくらい、深く遠いところで。
怖がらないでください。そら、クジラかもしれないじゃありませんか。そう思って私は耳を澄ませました。波は、こんな海では寄せて返したりはしません。ただ寄せるだけです。寄っては船を揺らします。繰り返し、繰り返し……。それと同じように、その声も寄せ続けました。ゆあーん、ゆよーん……
そして、その歌声の中に、私の名前が聴こえたのです。
それはキラリと光る波の切先のような儚さでした。飛沫のように消えてしまう声でした。けれども確かに聞こえたのです。
それに気づいてから私はこの航路に乗るたび甲板へ出てその歌を探すようになりました。ここの海はさほど寒いわけではありませんが夜の海というのは水気が強い。いつの季節も甲板で息を吐くとそれは白くなるのです。不思議でしょう? 自分の吐いた息と船が駆り立てる波飛沫とで睫毛がしっとりと濡れるのです。濡れて重たくなる。私はつい段々に瞼を下ろしてしまいます。そうして聴こえてくる歌を聴いていると、いつしか、前も後ろも、上も下も分からなくなってくる。
ゆあーん、ゆよーん、と……
はっ、と気がつくと、私は甲板の手すりから身を乗り出し、ほとんど落ちかかっていました。
引き寄せられたのです。
咄嗟に握りしめた手すりは氷のように冷たく、手足の先から血の気が引いて私はガタガタ震えながら甲板に尻もちをつきました。歌声は聴こえなくなってしました。けれども、その代わりにどこかで、くす、くすと、女の笑い声がしたような気がしたのです。
それ以来私は夜の甲板へ出るのはもうよそうと思いました。いや、そもそも、この海には近づかないようにしようと思いました。他の航路はよいのです。海は蒼く、夜は穏やかです。歌は聴こえません。また、他の旅も楽しみました。鉄道も山も良いものでした。私はあの声のことを忘れかけていた、忘れられると思っていたのです。けれども、いつからでしょうか、宿で眠りに就く狭間に、列車のトンネルの暗がりに目を瞑る瞬間に、あるいはふとした日常の中にさえ、不意に、あの声が聴こえてくるような気がするのです。
歌声がする。遠くから私を呼ばわるように。
引き寄せられているのです。この海に。
そうして私はとうとうここへ戻ってきてしまいました。あれほど恐ろしかったはずなのに、この海が近づくほどに、私の気持ちは昂ってまいりました。船に乗り込むときなど、郷愁に焦がれるような心地さえいたしました。夜が迫るほどに、あの歌声が胸に迫ります。
そう、あの声です。
あの音ですよ。
さっきからずっと響いているでしょう。この船底の、あの窓の下の、すぐそこにある海から。
ゆあーん、ゆよーん、と……
あなたにも聴こえているのでしょう?
歌が聴こえる。もはや海の底の深く遠いところからではありません。あなたの、背後の、丸い窓から、外を覗いてみませんか。ご一緒に。声の主は、きっと、すぐそこまで寄ってきているはずですから。
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