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突然、風呂場の引き戸が勢いよく開いた。結構な音がした。忍ぶような気持ちでコソコソ身体を洗っていた僕は肩をビクンと跳ねさせながら、反射的に視線を上げる。
よく磨かれた鏡に映る光景を目の当たりにして、心臓が口から飛び出しそうになった。背後に理香子さんが立っている。それも毛布もタオルも巻いておらず、完全に裸の状態で。色んな所を丸見えにさせながら、にっこりと僕に微笑みかけてくるのだ。
「お背中流しに来ちゃったぁ」
「だっ、ダメですよ! 何やってんですか!?」
「あらあら、前なんか隠しちゃって。今更見られたって減るもんじゃないでしょ」
理香子さんは遠慮なく風呂場に足を踏み入れ、引き戸を閉めてしまう。いくらシステムバスとはいえ、大人二人が洗い場に立つと狭い。互いの息遣いすら聞こえる距離感。僕の暴れ回る心臓の鼓動もきっと理香子さんに伝わってしまっているが、だからと言ってすぐに止められるものでもない。
視線を逸らす僕の背後にピタリとつく理香子さん。そのまま僕の耳元に息を吹きかけてきた。くすぐられるような感触が耳に走って、僕の背筋がぞくりと粟立つ。
「よく考えてみたら、君のことが可哀想になってきちゃって」
「可哀想、とは」
「君、きのう自分で言ってたけど……私が『初めて』だったんでしょ。これまで、一人も付き合ったことなんかなかったそうじゃない」
「そ、そんなことも言ってたんですか」
「せっかく気持ちいいことして一皮剥けたのに……それを覚えてないってのは、ねえ。いくら何でも、もったいないなぁと思って」
返す言葉が見つからなかった。僕はようやく、男としての大事なものまで失ったことに気付いた。
きっかけはどうあれ――女性との一線を踏み越えたんだ。それも、ずっと憧れだった理香子さんと。ずっとこうしたかったという願いが、あっさりと叶ってしまったのである。
しかし、僕にその記憶はない。僕が理香子さんに何をして、理香子さんが僕に何をしてくれたのか、全く知らない。
とんでもない脱力感が襲ってきた。男としてのステータスを、僕は酒に溶かした。一生に一回しかない体験を、取り返しのつかないところに置いてきてしまったのだ。
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