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その日の夜には、隼人はもう紗江のことなどすっかり忘れてしまっていた。それくらいに隼人にとっては紗江とのことなど、とるに足らない日常のひとこまでしかなかった。
そんなことよりも隼人はここ最近、連日のようにかかってくる杉子からの電話に悩まされていた。
『隼人。わたしはもう80歳なんだ』
『隼人。いつになったら結婚するんだい』
『隼人。わたしにひ孫の顔を見せないつもりなのか』
隼人隼人隼人……杉子のしわがれた声でそう呼ばれるたび、隼人の心は黒く塗りつぶされていく。隼人とて杉子に感謝している面はあるのだ。厳しくしつけられたおかげで、大概のことは自制心が働くし、忍耐力もある。精神的にとてもタフになったことだけは、甘やかさず育ててくれた杉子のおかげだと思っている。
だが、もう操作されるのはこりごりだった。杉子はなんとしてでも隼人を結婚させ、ひ孫の顔も見ずには死ねないと言い張っている。隼人にしてみれば、あと数年耐えれば、さすがに杉子もお迎えがくるだろうと、その時を密かに待ち望んでいるのだが、今のところ杉子がそうなる気配は微塵もない。
結婚し、ひ孫の顔など見せようものなら、より一層に元気になってしまうのではないかと危惧するくらいだ。それくらいに杉子は80になってもパワフルだった。
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