Memory of the Memory

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 智洋の熱は案の定一晩ですぐに下がった。聖人は困惑していたが、熱がなくても病院に行かせたかったようで、智洋がそれは拒否し、今日も大学に送り出した。智洋の看病のせいで留年なんてことになったら事だ。それに、聖人がいると気になることを調べられない。聖人に隠し事をするのは胸が痛むが、聖人を疑っている以上話すこともできない。  智洋は苦笑いした。これではまるで聖人を邪魔者扱いしているようだ。聖人のことは心から愛しているのに、心から信用することができない。  智洋は頭を振り、気持ちを切り替えて枕元に置いたビジネス書、に扮した日記帳を手にした。ゆっくりと深呼吸する。震える手で日記の表紙を開く。Diaryの文字を噛みしめるようになぞり、恐る恐る次のページを開いた。 ――――  憎い。  私の夫を奪ったあの女が憎い。何故私があの女の子供を育てなければならないの?私の子供は智洋だけなのに。智洋はどうして聖人を庇うの?私がお母さんなのに。智洋だけは私を、私だけを愛してくれると思っていたのに。このままでは智洋までも憎んでしまう。全部全部あの女が悪い。あの女さえいなければ、全て上手く行っていたのに。裕福な家庭に優しい夫、出来た息子、全て完璧だったのに。憎い憎い憎い。  智洋、智洋だけは私の味方でいてくれると思ったのに。聖人を苛めるお母さんなんて嫌い、だなんて。私は悪くない。私は間違っていない。だって智洋、お父さんを見て?お父さんが聖人を見る目をよく見て?あれは子供を愛でる目じゃない、あれは欲望に塗れた目よ。夫はあの女と通じてから私には指一本触れなくなった。お父さんは聖人をあの女と同じように見ているのよ。悍ましい。怖気が止まらない。智洋、気付いて。  近所の花屋が閉店するらしくカシスの苗木を譲り受けた。植物なんて育てたことないけれど、いつかこの苗木が実をつけたらジャムにして智洋にフレンチトーストを焼いてあげよう。甘いものが好きなあの子だからきっと喜ぶ。  智洋に手を上げてしまった。でも智洋が悪い。智洋が聖人を庇うから。私より聖人を大切にするから。智洋、ああ智洋どうしてわかってくれないの?あの子はあなたのお父さんを誑かした売女(ばいた)の息子なのよ。いずれあの容姿で数多の人を誑かすに決まっている。あの女の息子だもの。あなたも誑かされるかもしれない。ああ悍ましい。駄目よ智洋、それだけは駄目。聖人に肩入れしては駄目。お母さんをどうして信じてくれないの。  カシスの木が小さな実をいくつかつけた。ジャムにするにはとても足りないけれど、八百屋で買い足してジャムにしよう。最近はもう智洋は私に笑顔を見せてくれなくなった。美味しいお菓子を作ってあげたら、喜ぶかしら。  もう駄目。  毎日毎日酒に溺れて自分を傷つけて聖人を詰って智洋を叩いて夫に怒鳴られて、もう嫌なの。智洋を連れて逃げようかしら。どこへ?行く所はないけれど。  智洋、逃げるお母さんを許して。どうか真っ当に生きて。貴方に嫌われたら私は死にます。 ――――  それを最後に、日記は途絶えた。最後の日記は、力なく、やっとの思いで書き綴ったのが見て取れる。ビジネス書に隠して書斎に届けた母の懸命の叫びは、父にも、智洋にも終ぞ届かなかったのだろう。  智洋は日記を閉じ、眉間を揉み解した。ゾクゾクと背筋を何かが這うような気配がする。下がったはずの熱がぶり返してきそうだ。深呼吸して頭を振ると、少し気持ちが落ち着いた気がした。  聖人は、弟なのだろう。恐らく、腹違いの。何らかの理由で父は聖人を引き取り、智洋と兄弟として育てることにしたが、母はそれに耐えられなかった。それはそうだろう、智洋と聖人は歳の差がない。同時期に二人の女を孕ませ、しかも妻である母には指一本触れなくなったという。  と、そこまで整理して、智洋はふと違和感に気付いた。  一つだけ新しい手錠。減ったローションにストックされたローション。煌々と輝くランプ。輝きの失われていないドアノブ。  あの部屋は、つい最近まで使われていたはず。母が亡くなったのはもう何年も前であり、その母とはずっと営みがなかったというのなら。それなら、父は一体誰とあの部屋を使っていたのか。 ――お父さんは聖人をあの女と同じように見ている 「……!!」  智洋はゾッとした。  手錠の付いたベッド。三脚にビデオカメラ、パソコン。使い込まれたバラ鞭。溢れるほどの玩具。――慣れた、身体。 「うッ、ぐ、おえっ……げえッ……」  トイレ迄など到底間に合わず、智洋はその場に嘔吐する。吐くものが無くなっても止まらなかった。吐瀉物と唾液と涙で汚れた顔は、何もかもを忘れ去った今の自分にはお似合いのような気がした。  ふと、顔を上げる。開け放った窓から風が一陣吹き込んで、レースカーテンを持ち上げた。 ――あそこは行くなって智くんが最初に言ってたよ。物が溢れてて雪崩が起きるから危ないって    聖人の声が(よぎ)る。しかし二階は聖人の話ほどには荒れていなかった。聖人は本当は弟であり、だとすれば本当に恋人だったのかも怪しい。  智洋は唇を戦慄かせた。離れが物置なのはよくある話だ。雪崩が起きそうな話は本当かもしれない。しかしもはや聖人の話を信じることができなかった智洋は、呼び寄せられるように離れを目指した。
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