Memory of the Memory

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 記憶喪失だと告げられたとき、然程ショックは受けなかった。己の名だと教えられた佐久間 智洋という名前には不思議と違和感がなかったし、病院食が出たときにスプーンの持ち方に困らなかったというのが大きい。記憶がないとはいっても戸籍は存在しているわけで、それさえあればどうにでもなるだろう。強く打ったらしい頭の怪我も経過は順調で、この分だと退院する時に抜糸も出来そうだということだった。記憶がないから定期的に検査に通わなければならないだろうが、基本的には人間らしい生活ができそうで、ぼんやり窓の外を眺めながら長い長い一日を過ごしている。その長い一日の中で智洋がすることと言えば、不味い病院食を食うとかトイレに行くとかそんなことしかない。 「智くん、こんにちは。調子はどう?」  そんな中で、毎日甲斐甲斐しく見舞いに来てくれるこの青年の存在は大きかった。驚くべきことに、智洋と彼は恋人同士で同棲していたというのだ。自分に同性の恋人がいたことに大層驚いた智洋だったが、この青年を見ていると性別の枠に囚われることが馬鹿馬鹿しくなってきたので、つまり以前の智洋もそういうことだったのだろう。  何せ聖人と名乗ったこの男、サラサラと風に靡く色素の薄い髪に宝石のようなエメラルドグリーンの瞳を持ち、象牙のような白い肌にほんのりと紅が差す頬はさながらビスクドールのように美しい。聞けばクォーターらしいが、日本人の血の方が濃いというから驚きだ。  智洋は毎日彼の訪れを楽しみにしている。大学生らしい彼はいつも訪れるタイミングこそ違うが、必ず面会に来て、時間を持て余す智洋のために自宅にある本をいくつか持ってきてくれた。記憶を失う前、医学を学んでいたという智洋は大変勤勉だったようで、いつも分厚い本を開いていたらしい。心を病んで自ら命を断ってしまった母のために精神科医を目指していたと聞いたときは、母親が自殺という衝撃の内容であるはずのそれを不思議と受け入れたから、事実なのだろう。  聖人は時間の許す限り面会に来て、以前の智洋について話してくれた。体調を崩して足元が覚束ない中、真夜中に電気も付けずに歩いて階段から落ちたという事故の真相を聞いたときは情けないやら恥ずかしいやらで消えたくなったが、聖人はそんな間抜けな事故の挙げ句記憶を失った智洋を責めるようなことは一切無く、焦らずゆっくりしようと微笑んでくれた。花が綻ぶようなそれにじんわりと心の奥底が温まるのを感じながら、智洋は彼が恋人だったという事実をも少しずつ受け入れていった。 「来るとき先生にお会いしたよ。来週にも退院出来そうって」 「そうか……」 「よかったね、退院祝いしようね。唐揚げとハンバーグと、コーンスープとポテトサラダと、グラタンとあとは……」 「俺の好物?」 「そうだよ、俺頑張って覚えたんだ」 「子供舌だったんだな」  聖人は控えめにクスクスと笑いながら頷いた。育ちの良さを感じさせるその仕草に心が安らいでいく。聖人の笑顔を見ていると心が凪ぐ。記憶がなくなっても困らなさそうだが、彼との思い出がすっかり失くなってしまったのは惜しいなと思う。いつ出会い、惹かれ、何をきっかけに思いを通わせるに至ったのか、それを彼に尋ねるのは酷なような気がしている。聖人も、敢えてその辺りの話題を避けているように感じられた。聖人は智洋の経歴や人柄についてはよく話してくれたが、聖人自身のことや二人の関係においてはほとんど話さなかった。 「何か食べたいものがあればリクエストしてね」  聖人は朗らかに笑う。仮にも恋人が記憶喪失で、自分の事をすっかり忘れてしまったというのに、まるでダメージを受けていないかのような美しく慈愛に満ちた微笑みは、智洋にとってはありがたいものではあったが同時に、人としてはどこか歪で不気味であった。きっと、無理しているのだろう。させているのは智洋だが、生憎記憶が戻る気配はなく、してやれることなど何もなさそうだった。
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