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程なくして智洋は無事退院した。記憶は相変わらず戻らないままで、月に一回検査に訪れるよう医者から言われている。その頻度も、特に経過に問題がなければ間隔を開けていくようだ。
記憶に関しては然程気にしなくていいと言われている。脳には異常がないために、何かの拍子にふと戻るかもしれないし、ずっとこのままかもしれない。気にし過ぎて精神を病んでしまわないようにと言われただけだった。
少ない荷物を纏め、部屋で待つ。一緒に暮らしている聖人が退院手続きや諸々の面倒を引き受けてくれたのは正直ありがたい。少し申し訳ないような気もしたが、聖人はこれくらいさせてくれと言って聞かなかった。
「智くん、おまたせ。ごめんね、会計混んでた」
慌てた様子で病室に入ってきた聖人に片手を上げて挨拶をすると、聖人はホッとしたように微笑んで荷物を持とうとする。そのくらい持てると言ったが、聖人は聞こえているのかいないのか、智洋に荷物を持たせようとしなかった。
「凄く大きいお家だから、智くんびっくりしちゃうかも」
運転席で小さく笑う聖人は、日の光が降り注いでいてとてもきれいだった。
二十分ほど走らせると、ごく一般的な戸建住宅が建ち並ぶ住宅街に入った。そのどれをも素通りし、大通りを抜けると、目の前に一等目立つ洋館が現れる。かなりの豪邸だと事前に聞いてはいたが、予想以上のそれに智洋は目を丸くした。
「もしかして、あれ?」
「そうだよ、びっくりしたでしょ」
聖人は悪戯が成功した幼子のような顔をする。一度車を降りて大きな門扉を手動で開けると、きれいに整えられた庭の片隅に駐車した。
「さ、こっちだよ」
相変わらず荷物を持たせてくれない聖人に案内されて、智洋は洋館を見上げる。見覚えはない。懐古の念も浮かばない。ただただ、でかい家だなという感想が浮かんだ。
智洋の父親はなかなかの資産家であったらしい、というのは入院中に聖人から聞いた話だ。大きな会社で重役を務め、あちこちに不動産を所有し様々な株を売買していたようだ。その父も昨年他界し、智洋一人で暮らすには大きすぎるこの家をどうしようか悩んでいたところ、聖人という恋人が出来たので招き入れたのだという。二人暮らしにも広すぎる家だが、家賃も駐車場代もかからず自分たちの生活区域だけの手入れなら然程苦労していなかったらしい。なるほど合理的だ。
「智くんの部屋はここね。俺は正面。トイレはそこ、洗面とお風呂はあっち。」
「他は?」
「二階はホコリまみれで荒れてるから行かないほうがいいよ。あとあそこ」
聖人は窓際に移動し、そこから見えるやや小さめの館を指差した。
「あれ離れなんだけど、あそこは行くなって智くん言ってた。物が溢れてて雪崩が起きるから危ないって」
もう随分人が出入りしていないのか、真昼だというのにどんよりと重苦しい空気を放つそこは一切の物を拒絶しているようにも見える。敢えて近寄ろうとは思わないが、怖いもの見たさに興味を唆られてしまうのも事実だった。
智洋はふいと視線を反らした。華美な装飾を施された大きな玄関に、古びてはいるものの高そうな調度品。荒れているらしい二階へ続く大階段は中世の物語に出てくる宮殿のようだ。どうやら本当に、自分は大金持ちのお坊ちゃんだったらしい。
「さ、じゃあお昼にしようか。フレンチトースト仕込んであるんだ。庭で採れたカシスでジャム作ったんだよ。智くん大好きだったから」
支度してくるね、と聖人はキッチンに消えた。その後ろ姿はどこか浮足立って見える。智洋が無事に退院したことが嬉しいのだろうが、当の智洋は全くそんな気分になれないのが正直なところだった。
聖人がいなくなったのを確認して、大階段の麓に膝を付く。きれいに掃除してあるが、目を凝らせばハッキリと見る事ができる、血痕。智洋はこの階段から落ちたのだろう。二階には行かないほうがいいと言っていたが、一体なんの用があって以前の智洋は体調が悪い中ホコリまみれで荒れ果てた二階に行ったのだろう。
塞がったはずの傷跡が、ずくりと疼いた気がした。
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