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2 変わる日常
ぼくの毎日は午前十時から午後四時までの弁当屋と、月に何度かやっているチラシ配りのバイトをくり返すだけだ。そんな何の変化もない毎日に、最近は弁当屋の常連さんとおしゃべりをする時間が加わった。
おしゃべりをする相手は、いつも弁当を十個買っていくガテン系のあの人だ。名前はいぬがみさんと言って、一度ぶつかった後も何度か曲がり角でぶつかりそうになったからか、気がつけばすっかり仲良くなっていた。
ぼくが四時にバイトが終わることを知ったいぬがみさんは、「がんばってるご褒美だ」なんて言って飲み物をくれる。それを持って公園に行き、しばらく二人でおしゃべりをした。
(だって、飲み物をもらうだけじゃ悪いなぁって思うし)
いぬがみさんは、いつもココアを奢ってくれる。甘い物は食べられる機会が少ないから、ぼくにとっては贅沢なスイーツみたいなものだ。ココアを目当てにおしゃべりに付き合っていると言い切れなくもない。
「そうか、ご両親はもういないのか」
「四年前に事故で死んじゃって」
「そりゃあ大変だな」
「でも、お母さんが働いてたいまの弁当屋で雇ってもらえたし、住んでるアパートも親戚のおじさんが格安で貸してくれてるものだし、そんなに大変でもないです」
「それでも、一人で生きていくっていうのは大変なもんだ。ボウズはがんばってる」
いぬがみさんがワシワシとぼくの頭を撫でた。それに涙が出そうになって、慌てて何度も瞬きをする。
いぬがみさんとは毎日のようにおしゃべりしているからか、今日はうっかり両親のことを話してしまった。弁当屋のお客さんに二人のことを話したのは、いぬがみさんが初めてだ。
両親は、ぼくが中学二年になったばかりのときに交通事故で死んだ。それはもうあっけないもので、先生から「急いで病院に行け」と言われて行った病院で見たのは、並んで眠っているような状態の二人だった。幸いだったのは外見がきれいだったことだと警察の人に言われた気がするけど、あのときのことはあまり覚えていない。
中学二年生のぼくには、そのあと何をすればいいのかさっぱりわからなかった。どうしようか途方に暮れていたら、親戚のおじさんや近所のおばさんたちがあちこちに連絡をしてくれて、葬式をすることができた。
その葬式もギリギリでなんとかなった形だ。売れないピアニストだったお父さんと弁当屋で働いていたお母さんに貯金があるはずもなく、葬式は役所に申し込んでできるとても簡素なものだった。もちろんお墓なんて買えるはずもなくて、おじいちゃんたちのお墓に入れてもらえなかったらお墓すらないところだった。
(おじいちゃんには、あれ以来会ってないなぁ)
葬式をするまで、ぼくは祖父母に会ったことがなかった。おじさんやおばさん、それにいとこたちにも会ったことがない。唯一何度か会っていたおじさんが「二人は駆け落ちだったからね」と言っていたのを聞いて、その理由を初めて知った。
葬式が終わった後も、しばらくバタバタが続いた。契約の関係で借家だった家は解約、葬式代や諸々を払うために家具やいろんな物を売ったりしたけど少ししかお金にならなくて、お父さんが大事にしていたピアノも大したお金にはならなかった。
ぼくは高校受験をやめて、おじさんから格安でアパートを借りて一人暮らしをする決心をした。貸し主がおじさんだから保証人はいらないし、家賃が払えない月は払わなくていいよって言ってくれている。電化製品も家具も備え付けの物があったから、本当に助かった。
それに弁当屋のおばさんも中卒のぼくを雇ってくれたし、お昼ご飯に弁当をくれたり余ったおかずを持たせてくれたりもする。弁当屋のおじさんは、おばさんには内緒だよと言ってお菓子をくれたりもする。
弁当屋の夫婦はぼくの年齢を知っているのに、それでもお菓子をくれるってことは……。
(そんなに子どもっぽく見えるってこと……?)
思わず考え込んでしまったぼくに、「なんにしても、一人ってのは大変だ」って声が聞こえてきた。
いつもと違う雰囲気の声だからか、いぬがみさんの言葉がやけに重く聞こえる。ぼく自身はそこまで大変だとは思っていないけど、これから大変なことがたくさん待ち受けているのかもしれない。
「こんな小せぇのに、よくがんばってる」
ワシワシ撫でられるのはいんだけど、「こんな小せぇのに」っていう言葉には、ちょっと複雑な気持ちになる。やっぱり勘違いされているのかもなぁと思って、きちんと年齢のことを話すことにした。
「あの、ぼくもうすぐ十八歳なんで、そんなに子どもじゃないんですけど」
「……なんだって? もうすぐ十八歳って、まさか十七なのか!?」
いぬがみさんの様子にぼくのほうが驚いて、コクコクと頷くことしかできなかった。
「いやぁ、あんまり小せぇから、てっきり小学生かと思ってたんだがな……」
(まさか、本当に小学生に間違われていたなんて……)
さすがにそれはショックだ。たしかにぼくは小柄なほうではあるけど、そこまで小さくはない……と思いたい。そう思いながら、ベンチの隣に座るいぬがみさんをチラッと見た。
いぬがみさんは、ぼくが出会った中でも群を抜いて大きな体をしている。なんたって、隣に立つとぼくの頭が肩に届かないくらいなんだ。でもそれは、ぼくが小さいからっていうよりも、いぬがみさんが大きすぎるからだと思っている。
「いやはや、人の子の年齢ってのはわかんねぇもんだな。そうかそうか、十七歳か」
十七歳ってことに感心しているふうな言葉を聞き流しながら、ぼくは残っていたココアを静かに飲んだ。
(この甘さが体に染みるんだよなぁ)
いつも弁当屋のおじさんが「五臓六腑に染み渡るなぁ」なんて言いながらお酒を飲んでいることを思い出す。いま飲んでいるのはココアでお酒とは違うけど、きっと似たような感覚に違いない。
「十八歳ってのは人の世じゃあ成人ってことだったな。もうすぐその十八ってことは、つまりほとんど大人ってことだ。そうかそうか、大人か」
「いぬがみさん?」
まだぼくの年齢のことを考えていたんだ。そんなに何度も言われると、さすがにへこんでくる。
「よし。ボウズ、一緒に住まないか?」
「…………え?」
何を言われたかわからなくて、聞き返すのが遅れてしまった。
「オレと一緒に住まないか?」
「……はい?」
「『はい』ってのは、了承ってことでいいか? そうかそうか、一緒に住むか。そのほうがボウズにとってもいいのは間違いない。うんうん、そうだな、そうしよう」
「え? あの、いぬがみさん?」
もしかしなくても、「一緒に住む」って言った? 年齢の話から、どうして一緒に住むことになるんだろう。それよりも、どうしていぬがみさんが一緒に住みたがるのか全然わからない。
「そうと決まれば、さっそく引っ越しだ。あぁ、荷物は後回しでいい。まずはオレの部屋に行こう。そこでオレの匂いを馴染ませるのが先だ。あの弁当屋で働きたいのなら続けても構わんが、匂いが馴染むまではしばらく休んだほうがいい。あぁ任せろ、諸々の連絡はオレがしておく。さぁ行くぞ」
「え、ちょっと、いぬがみさん!? あの、ちょっと待って、待ってってば!!」
急に立ち上がったいぬがみさんに手を取られ、引っ張るように公園の少し先にある有料駐車場に連れて行かれた。
(っていうか、本当に一緒に住むってこと? え? なんで? どうして?)
気がつくと、でっかい車の前に立っていた。ぼくが「でかっ!」と驚いている間に助手席のドアが開いて、押し込まれるように乗せられる。軽くパニックに陥っていると、すぐさま運転席にいぬがみさんが乗って、気がついたら車の中から大通りのビルを眺めていた。
(……あ、シートベルトしないと……って、もうしてる……)
そういえば、車が動き出す前にいぬがみさんにしてもらった気がする。胸にあるシートベルトを見てから顔を上げると、どこからかいい匂いがすることに気がついた。
(……なんだろ、これ。車につける香水とかかな……)
でも、香水っぽくはない。どちらかというと、春の原っぱみたいな温かくて柔らかな匂いだ。
このときぼくは、完全に現実逃避していた。そのくらいしか、ぼくにできることはなかったんだ。逃げようにも、走っている車から飛び降りることなんてできない。そうなると、ぼくには外を眺めることか現実逃避くらいしかできることはない。
(……まさか、誘拐……って、そんなわけないか)
ついさっき両親は死んでいて、おまけにぼく自身は貧乏だって話をしたばかりだ。そんなぼくを誘拐したところで、いぬがみさんには何の得もない。
いろいろ考えている間に、車は地下駐車場に到着していた。車を降りたぼくは、いぬがみさんについていく形でエレベーターに乗る。そこでいぬがみさんが三十二階のボタンを押すのが見えた。
(三十二階って……え? 三十二階?)
三十二階って何があるんだろう。いぬがみさんは「一緒に住む」って言っていたけど、まさか三十二階に家があるなんて……もしかして、いぬがみさんの家だろうか。
そもそも三十二階がどんな高さかさっぱりわからない。スカイツリーよりは低いと思うけど、東京タワーと比べたらどっちが高いんだろう。
そんなことを考えていたら、ポン、と鳴ってエレベーターの扉が開いた。いぬがみさんの後に続いて恐る恐る踏み出すと、目の前に大きな窓があった。
(……これって、テレビか何か?)
思わずそう思ってしまうくらい、窓の向こう側にはミニチュアの街が広がっていた。
(っていうか、ここはどこ……?)
やっぱりいぬがみさんに攫われた、ってことなんだろうか……。
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