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猫の恩返し
その日、あかりは朝から玄舞家の稽古場で舞の稽古をしていた。
(この次の動きが難しいんだよね。気をつけなくちゃ)
あかりが舞に意識を傾けようとしたそのとき、外から弱々しい声が聞こえた。あかりは思わず動きを止めてしまった。
「今の鳴き声って……」
ひとりごとに答えるように、もう一度鳴き声がした。あかりは声のした方に目をやった。
「やっぱり、猫だ」
そこには白い子猫がうずくまっている。あかりは縁側を下り、裏庭にいるその子猫へ駆け寄った。しゃがみこんでよく見ると右の前脚が赤に染まっている。
「けがしてるの?」
「にゃぁ……」
「かわいそうに……」
あかりは呟くと、そっと目を閉じた。
「病傷平癒、急々如律令」
するとあかりの声に応じて、赤い光の粒が子猫の前脚を包み込んだ。血が滲んでいた毛の色は赤のままだったが、傷口はふさがっていた。
「ごめんね。私、あんまり治癒が得意じゃないの。応急処置みたいなものだけど、さっきよりましにはなった?」
「にゃあ」
子猫は先ほどより幾分か元気づいた声で鳴いた。まるであかりの言葉を理解しているかのようだ。
「もしかして妖の猫なのかな」
「にゃあ」
「……私には何を言ってるかわからないや」
少し肩を落としたあかりだったが、やがて立ち上がった。
「ちゃんと診てもらった方がいいよね。昴を呼んでくるから、あなたはここで待っててね」
しかしあかりが昴を連れて裏庭に戻ってくると、そこにはもう子猫の姿がなかったのだった。
それから一週間後。この日は玄舞の邸に幼なじみ四人がそろっていた。稽古の休憩にと、昴が用意した緑茶と塩豆大福をあかりが堪能していると、聞き覚えのある声がした。あかり以外の三人にも声が聞こえたようで、皆動きを止めた。
「猫でも迷い込んだか?」
秋之介の言葉にあかりはさっと立ち上がった。
「もしかして……」
「あかりちゃん?」
「さっきの鳴き声、先週昴に診てもらおうとした猫のものかもしれない」
裏庭を見渡すと、案の定庭の隅に白い子猫が佇んでいた。けがの跡もなく、すっかり元気そうな姿にあかりはほっと胸をなでおろした。
「良かった。応急処置だけでどこかに行っちゃうから心配してたんだよ」
あかりが子猫に手を伸ばそうとすると、眩い光が子猫を覆った。あまりに突然の出来事にあかりは手を伸ばした姿勢のまま硬直してしまう。縁側から様子を見守っていた三人も目を瞠っていた。
光が収束すると、そこには白い子猫ではなく、白い髪に白い着物をまとった一〇歳にも満たないような少年がいた。唯一目の色だけは琥珀色をしている。
少年はにっこりと笑うと、あかりに抱き着いた。
「お姉ちゃん、この間はありがとう!」
興奮しているせいか少年の頭部から猫の耳がぴょこんと生える。あかりは次第に状況を飲み込んでいった。
「あ、あなた……あのときの子猫……?」
「そうだよ! ぼく、恩返しにきたんだ」
「……あかり。その子は?」
硬い声に振り向くと、案外近くに結月が立っていた。
あかりは少年から身を離すと事の経緯を説明した。
「なるほどな。だから『恩返し』ってわけか」
秋之介はあかりにぴったり身を寄せて縁側に座る少年を見やった。少年は昴からもらったお菓子を美味しそうに頬張っている。
あかりを挟んだ反対隣では結月が面白くなさそうにその光景を眺めていた。
「新年会のときも思ったけど、ゆづって意外と大人げないよな」
「……ほっといて」
「どうかした、結月?」
「ううん。……それより、恩返しって何をするつもり、なんだろうね」
するとお菓子を食べ終わった少年がぱっと顔を上げた。
「お姉ちゃんは何かしてほしいことない?」
「ええ⁉ そんなこと言われても……」
年下の少年に何か、というのも憚られる。
(正直このままでも私は楽しいんだけど……そうだ!)
「だったら今日一日、私の弟になってよ!」
「弟になる……?」
少年は首をこてんと傾げた。
「そう。こうして一緒にお茶したり、おしゃべりしたり。あ、町に遊びに行くのもいいなぁ」
「そんなことでいいの?」
「うん! 私、弟妹に憧れてたんだ。一人っ子だし、幼なじみ四人の中じゃ一番年下だし」
あかりが笑うと、少年も笑顔を返した。
「わかった!」
「そうだ、名前はなんていうの?」
「琥珀だよ」
琥珀色の瞳を細めて、少年はそう名乗った。あかりたちも一通り自己紹介を済ませると、さっそく町に繰り出すことにした。
物珍しそうに周囲をきょろきょろ見回す琥珀とあかりは手をつないで歩いた。後ろには結月、秋之介、昴もついている。
「欲しいものあったら言ってね。買ってあげる」
「うん! じゃなかった。それじゃあ恩返しにならないよ」
頬を膨らませる琥珀に、あかりは小さな笑い声をもらした。
「そう? じゃあ、私の買い物に付き合ってよ」
「いいよ。何を買うの?」
「金平糖だよ。私の好きなものなんだ」
「金平糖? なあに、それ?」
仲睦まじく並んで歩く様は外見は似ていなくともまるで本当の姉弟のようだった。それを背後で眺めていた結月は複雑そうな顔をしていた。
「なんだよ、その顔」
秋之介に小突かれて、結月は彼に視線だけをやった。
「……あかりが楽しそうなのは嬉しい、けど」
そして視線を秋之介から琥珀に移してため息をついた。
「……はあ」
「難儀してるね、ゆづくんは」
結月と秋之介のやり取りに耳を傾けていた昴が笑いを滲ませて言った。結月はじとりとした視線を昴に向けた。
「……昴、面白がってる?」
「あはは、ごめんごめん。こんなゆづくん滅多に見られないものだから、ついね」
「……」
そうこうしているうちに、目的の駄菓子屋に到着した。
「ほら、これが金平糖だよ」
あかりが指し示すと琥珀はぱあっと目を輝かせた。
「わあ……! きれいだね。これが食べられるの?」
「そうだよ。甘くて美味しいんだ」
金平糖を購入したあかりは包みを開けると、数粒を琥珀の手のひらの上に落とした。
「食べてごらん」
「ありがとう、お姉ちゃん! いただきます……美味しい!」
無邪気な笑顔にあかりもつられて笑顔になる。
「……はあ」
「どうしたの、結月。ため息つくなんて珍しいね。もしかして疲れちゃった?」
「……うん、ちょっと」
「なら、これあげるから。元気出して」
そういうとあかりは結月にも金平糖を分け与えた。ついでに秋之介と昴にも分けた。
あかりも桃色の金平糖を一粒口に含んだ。舌の上に優しい甘さがじんわり広がって、顔が緩んだ。
「甘いものってどうしてこんなに幸せな気分になるんだろう」
「間抜け面」
「もう! 秋はすぐそういうこと言うんだから!」
あかりの幸せそうな顔を見て、結月は小さく微笑んだ。舌に転がした水色の金平糖は確かに結月を幸せな気分にさせた。
買い物を済ませると来た道を戻りながら店をのぞいていった。途中で買った焼き団子を食べながら、玄舞の邸を目指す。
このころにはあかりと琥珀はすっかり打ち解けていた。
「しりとりしよう。知ってる?」
「うん。友達とやったことあるよ」
「結月たちも一緒にやろう。じゃあ私からね。しりとり……りんご飴」
「め……めだか」
琥珀の後を昴が受ける。
「亀。はい、秋くんの番」
「亀だろ……。め……眼鏡。次はゆづな」
「鼠」
一周してあかりに戻ってくる。
「みたらし団子!」
「また食べ物かよ!」
「いいでしょー」
あかりは持っていた焼き団子を頬張った。みたらし団子も好きだが、あの店の焼き団子はやはり絶品だ。
ゆっくり歩いていたからか、邸に着くころには日暮れが迫っていた。裏庭に差し込む橙色の西日がきつい。
「今日はありがとう、琥珀くん」
「ぼく、恩返しできてた?」
「うん! 花丸だよ!」
あかりが琥珀の頭をなでると、琥珀はくすぐったそうに目を細めた。そしてその身が再び光に包まれる。少年の姿はなくなり、代わりに白い子猫が現れた。
「にゃあ」
「今日は楽しかったよ。またね、琥珀くん!」
「にゃあ!」
あかりが手を振ると、白い子猫は庭の植え込みの中へと飛び込んでいった。
「あーあ。寂しくなっちゃったな」
あかりはぱたりと振っていた手を下ろした。
「弟がいたらあんな感じだったのかなー」
縁側に腰かけ足をぶらつかせる。庭を見渡しても、もう琥珀の気配は感じられなかった。あかりは諦めて側に佇む結月を見上げた。
「そういえば、今日の結月は疲れてたみたいだけど、大丈夫だったの? 無理して付き合わなくても良かったのに」
「……待ってても、やることないし」
「予定通り稽古とか」
「……集中できるわけ、ない……」
「え、何? なんて言ったの?」
「まあまあ。そのへんにしといてあげてよ」
見かねた昴が苦笑しながら場をとりなした。
「それよりみんな。今晩はうちで食べて行かない? こんな時間だし」
秋之介は間を置かずに頷いた。
「いいのか? じゃ、そうすっかな。ゆづは?」
「おれも、そうする」
「やったぁ! みんなで食べるご飯って美味しいもんね」
四人は連れ立って厨に向かった。
束の間の平穏の中、ある早春の日のことだった。
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