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風呂は良い。
一日、研究者として博物館で働いた疲れが精神的にも物理的にも落ちていく。
一つ残念なのは、背後に恐怖感を抱くことだ。
頭の泡を洗い流している最中は目を瞑るので、視覚が一切遮断される。
その時、後ろに霊がいるのではないか、とビビりな僕は思ってしまうのだ。
今日もその恐怖に怯えながら、洗体を完了し、湯船に浸かった。
全身から力が抜けていくような愉悦が私を包み込む。
現在の時刻は午後9時。風呂を上がってからも、寝るまでには十分な時間がある。
しかも明日は休日。本来ならば、多幸感に溢れているはずなのだが、今日は何だか一味違う。
何者かの視線を感じる。
背後ではなく窓からだ。
風呂に備え付けられている窓の方から、見られている。
僕は勇気をもって立ち上がり、窓を見た。
しかし、そこには暗闇が広がっているだけであった。
気のせいなのか?
未だ疑問は残りながらも、再び湯船に戻ろうとした、その時
暗闇の中に大きな目が開いた。
正確には、窓一面を覆うほどの巨大な目がこちらを覗き込んでいたのだ。
恐怖心を抱えながらも、私は窓を開けて、目の持ち主を確かめることにした。
ゆっくりと窓を開いてみると、暗闇だと思い込んでいたそれは、黒い体であった。
黒い体。そして巨大な目。
その正体は鯨だった。
鯨はこちらを見つめている。
いや、正確に言えば鯨が目を向けた方向に、偶然私が居たに過ぎない。
そこで僕はふと思った。
鯨の肌はどんな触感だろうか。
暗くて艶があるので、ゴムのような肌触りなのだろうか。
気になった僕は窓を開け、鯨に手を伸ばした。
恐る恐る手を伸ばし、触れようとした、
しかし僕の手は暗闇を切ったのみであった。
そこにいるのは、実体のない鯨の霊であった。
その大きな目はこちらを見据えていた。
何かを訴えかけてくるような目だった。
しばしの静寂の後、
「私の子供を返してください」
鯨は急に話しかけて来た。
よく見ると、大きな口を一切開いていないので、テレパシーで僕の脳内に伝えて来ている。
僕は冷静に分析をしていたが、それは目の前のあり得ない現実に動揺しないためだった。
「こ、子供?」
僕はそう鯨に聞き返した。
「そうです、返してください」
「いや、返すも何も鯨なんて飼ってないよ」
「そういうことじゃありません。あなたがこの間埋めていた鯨のことを言っています」
埋めていた鯨、そう言われて僕はピンときた。
この前、砂浜に打ち上がっていた子鯨について言ってきているんだ。
「人間には遺体を地面に埋めて弔う慣習があることは知っています。私の子を埋葬してくださり、ありがとうございました」
いや、あれは埋葬していた訳じゃないんだよなぁ
後々、全身骨格として博物館の目玉展示にするために、地中に埋めて余計な油分を取り、微生物に分解してもらい骨だけにしようとしているだけなんだよね。
何だか申し訳ないなぁ
「しかしながら鯨には鯨の慣習があるのです」
「鯨の慣習...」
「そうです。鯨の世界では、死後は海に還るべきなのです」
「なるほど」
何だか嫌な予感がする
「ですので、遺体、正確には骨を返してください」
やっぱりか
僕の予想は的中していた
「全身じゃなくて構いません。骨の一本さえあれば、あなたたちの世界で言うところの海洋散骨をすることができますから」
こちらとしても骨が1番大事なんだよね。一本でもなくなったら全身骨格ではないし
よし、なんとか説得して諦めてもらおう
そう決心し、僕は鯨の霊に話しかけた
「そんなに骨って必要かな?」
「はぐれてしまい、離れ離れになった子供ですよ!返して欲しいにきまっているじゃないですか!そして弔ってあげたいと思うのが親心じゃないですか?」
あー、ダメそうだ。熱量が強い。説得不可能じゃないか。
「ごめん、確かにそう思うのは当然だったね。でも難しいと思うな」
「どうしてですか?掘り返すだけだと思うのですが...」
やばいな。「骨を博物館で展示しようと思ってるからです」なんて正直に言ったら、怒り狂うだろうな。どうしよう。あ、そうだ
「鯨の遺体にはね、メタンガスが溜まっているんだ。だから今すぐ掘り起こしてしまうとガス爆発を起こして危険だから難しいんだよね」
嘘だ。ガスの処理については、埋める前に施している。
「そうなんですか...危険なら仕方ないですね。でも...」
またもや嫌な予感がする
「何年か経てば、そのガスも抜け切って掘り起こせる段階になりますよね?」
自分がついた嘘のせいで追い込まれた。
「えー、まぁそうだね。うーん10年ぐらいかかるかな」
本当はそんなにかからない。ガスの処理はもうできてるし、骨になるのも1、2年あれば完了する。
「10年ですか...結構かかりますね」
「そうなんだよねー、だから諦めてもらっ...」
「また、10年後に来ます。それまで空を漂っておきますね」
「え?あ、待っ...」
僕の声も聞かず、鯨の霊はどこかへ行ってしまった。
「まぁいっか。10年も経てば忘れてるでしょ」
そう言って僕は大きなくしゃみをした。
風呂場で湯にも浸からず立っていたため風邪を引きそうだった。
10年後
僕は結婚して、子供もできた。
そして、博物館は目玉展示である鯨の全身骨格のおかげで大盛況だ。
まぁ、8年前ぐらいに完成してるのでそこまで目新しさはないけれど。
仕事場で全身骨格を見る度に、あの鯨の霊を思い出す。
子供を持った今になると分かる。我が子のの大切さが。
嘘をついた罪悪感が日に日に大きくなっていった。
そして、今日で鯨の霊と出会った時から丁度10年経つ。
しかし、問題はない。以前は一人暮らしだったため、アパートに住んでいたが、今は一軒家を建て、引っ越している。僕の居場所など分かるはずがない。
しかも海洋博物館で働いていることも鯨の霊には一切知られていない。
バレるはずがない。
そう思いながら、今日も僕は無くなることのない罪悪感を抱えながら眠りについた。
午前2時ごろ
家の玄関が開く音がした
そして誰かが出て行った
流石に追いかけざるを得ないと考えた僕はすぐに外へ出た。
街灯に照らされて、20メートルほど先に子供がいるのが見えた
パジャマの柄から考えて、僕の息子だ。
「待ちなさい!こんな夜中にどこへ行くんだ!」
そう呼びかけようとした時、
目の前が更なる暗闇に覆われた。
10年前と同じ暗闇だった。
僕の眼前には鯨の霊がいた。
「お前、どうして...」
僕は思わず声を漏らした。
「どうしてはこっちのセリフです。騙したんですか?」
嘘がバレてる。なぜだ?
「海沿いに建てられている看板、ご存知ですか?」
「看板?」
「海洋博物館の看板ですよ。大々的に宣伝されてましたよ」
そんなものがあるのか?生憎広報担当ではなく研究職なので知らなかった。まさかそれで...
「鯨の骨、展示されてるそうですね?」
まずい、バレた。
でも、今はそれどころじゃない。
鯨の霊体を通り抜け、僕は息子を追いかけた。
「行かさないですよ」
鯨の霊は僕の耳元に体を寄せ、耳をつんざくような怪音波を発してきた。
僕はその場にうずくまった。
音のショックで体を動かせない。
そんな僕に対して、鯨の霊は淡々と語り始めた。
「我が子の骨が展示されていることを知った私は、すぐに博物館へと向かいました」
「信じたくはなかったですが、看板の通り、そこには骨と化した我が子の姿が展示されていました」
「怒りが込み上げてくるのと同時に、それ以上の哀しさが私に去来しました」
「これ以上見ていられなくなり、博物館の外に出て、空に漂っている時」
「博物館から仕事を終えて出てくるあなたを見つけました」
「考えるよりも先にあなたを追跡していました」
「すぐに家も分かりました。家族構成も。あなたには子供がいるのに、あんな嘘をついたこともです」
「そこで私は考えました。あなたが私の子を博物館で利用しているのなら、私もあなたの子供を利用してやろうと」
「それから、あなたの居ないところで息子さんとコンタクトを取り、お父さんに嘘をつかれたと伝えました」
「最初は動揺していましたが、流石は親子ですね。すぐに霊であることを受け入れてくれましたよ」
「そして、私と同じように、あなたに対して怒りを感じてくれました」
「骨を取り返す、と息子さんから申し出てくれましたよ」
「あなたたちが就寝後、博物館の鍵を家のどこに隠してあるかを霊体であることを生かし特定しました」
「それを伝えて、今夜実行してくれたということです」
「そういうことか」
音によるショックから少し回復した僕はようやく話せるようになった。
「今、僕の息子は博物館に向かっているってことだね」
「そうですけど...止めないんですか?」
「止める止めないの前に、あの子には無理だと思うけどな」
「でも約束してくれましたよ!」
「いや、そういう精神的な話じゃなくてさ、物理的に」
「物理的に?」
「霊だから、上から見ることが多くて気づきにくかったのかも知らないけれど、宙吊りで展示してるから、床とかなり距離あるよ。息子はまだ届かないと思うな。脚立は倉庫にあるけど、その鍵は家に持って帰ってないし」
それを聞いた、鯨の霊は哀しげな目でこちらを見つめ
「...諦めるしかないってことですね」
「いや、僕が協力したらいけるよ」
「力を貸してくれるわけないですよね?」
「貸すよ」
「どうしてですか?博物館の目玉展示なんですよね?」
「さっき、言ってくれたよね。息子から骨を取り返すと申し出てくれたって」
「言いましたけど、それがどうかしましたか?」
「息子が初めて自分でした決断なんだよね。親としてはそれを応援したい」
「親って言われても...私の子については考えてくれなかったですよね?」
「親心ってそういうものでしょ。自分の子供が最優先」
「人間の世界ではそうかもしれないですが、鯨の世界ではそうでもないですよ。種族が違うとこんなにも違うんですね」
「確かにね。だって他の種族の骨を飾るって訳分からないでしょ?」
「それは本当にそうです。まぁ返してくれるならいいですけど」
話終わった僕は鯨の霊と共に博物館へと向かった。
そこには、骨に手が届かなくて困っている息子がいた。
「お父さん!?鯨!どうして?バレちゃったの?」
「協力してもらうことになったんです」
「うん。じゃあ肩車するから、そこに立ってほしい」
「肩車?確かにそうすれば届くけどさ...」
息子は渋々、僕の肩にまたがり、展示されている骨のうち小さくてバレにくい指骨を取り外した。
「取れたけど...これを海に還しに行くんだよね?」
息子はそう鯨の霊に話しかけた。
「そうです、ありがとうございます。これであの子も偲ばれます」
博物館を後にし、3人で海へと向かった。
砂浜に到着し、
波打ち際に骨を置いた
そして、すぐに骨は海の中へと消えていった。
「10年越しに叶いました。ありがとうございます」
鯨の霊はそう息子に謝辞を述べた。
「あなたに対しては怒りと哀しみ、そして感謝と複雑な感情がありますが、とりあえずありがとうございました」
「嘘をついたのは申し訳なかったです」
「人間っていうのはよく分からないです。他人の子の骨を飾り、協力しないかと思えば、自分の子のために協力する」
「僕だってよく分かってないよ。口では子供のためだって言ってるけど、10年間溜まっていた罪悪感を洗い流す機会を得られたって思いも行動につながっているし」
「変な生き物ですね。罪悪感が邪魔なら最初からそんなことしなければいいのに。それと消えることなんてないでしょう罪悪感なんて、特に人間は」
「そうだね」
「それじゃ、そろそろ私も海に還ります。さようなら」
鯨の霊はそう言って、海へと消えていった。
「じゃあお父さん、帰ろっか」
息子は僕のことを見上げながらそう言った。
「そうだね」
僕は息子と二人で家に帰り、そして息子が寝室で眠りについたことを確認すると、再び博物館へと即座に向かった。
そして監視カメラの映像削除、取り外した骨のレプリカ作り等、証拠隠滅のために朝まで作業を行い、眠れない夜を過ごした。
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