プロローグ

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くるみは自分の立場と事の重さに震えていた。庭で長谷川と話した話など、簡単に出来る話ではなくなっている。金崎旅館と松浦呉服店の今後がかかっている事は分かっていた。だがくるみは、実家の老舗呉服店といえども、跡取がいないのであれば、閉めてしまえばいいとさえ思っていた。 老舗といっても店舗はくるみの実家の1店舗で、従業員はたったの3人。両親を合わせて5人で店を営んでいる。だけど金崎旅館の跡取に嫁ぐ事になれば、現在旅館で働いている従業員や、金崎グループの他の旅館やホテルまでくるみの肩に乗るのだ。目の前の契約書がそう記している。 現時点で、金崎旅館には長谷川しか跡取はおらず、松浦呉服店にはくるみしかいない。2つの老舗店を継承していくには、なんとしても後に続く子供を産まなければならないのだ。そうしなければ、何十、何百、何千の従業員達が職を失う事になる。くるみに重く重くそれらがのしかかり、今にも泣き出してしまいそうだった。 (長谷川は……分かっているの? そこまで考えている?) くるみは涙を浮かべ、ゆっくり顔を上げる。すると長谷川は眉間に皺を寄せ唇をぎゅっと結び、くるみをジッと見つめた。 「契約書を交換して空いている自分の所に自署捺印して。契約書は私達、親が預かります。後でコピーを光広に渡すわ」 和香がそう指示を出し、それぞれ紙を交換して署名と捺印すると、契約書を母親達がそれぞれしまった。 この後をどうするかと和香と母親が話をし始めた時、長谷川が口を挟んだ。 「この後、くるみさんと2人で出かけたいんです」 「あら、そうなの? 分かったわ」 和香が返事をして『顔合わせ食事会』は、やっと終わった。 母親が帰るのを和香と長谷川が見送りに旅館の外へ出て来て、くるみは長谷川の隣に立ち母親を見送る。父親が車で迎えに来ており、母親は助手席に乗り、くるみに声をかけ実家へ帰って行った。 車を見送った後、長谷川がくるみの手を取り和香に声をかけて、急ぎ足で駐車場へ向かう。くるみは小さな歩幅で駆け足のようにして、あとをついていく。 「あっ、ごめん。ちょっと、イラついて…」 長谷川が振り返ってくるみに言い、足を緩める。 「ううん…」 くるみはやっとあの重い空気から抜け出せた事と、気が許せる長谷川と2人になった事で、くるみの緊張が緩み涙を浮かべ頬へ流した。とっさにくるみはうつむき、顔を伏せる。 (ダメだ……泣いてる顔なんて、長谷川に見せた事ないのに…) 「松浦……」 「ごめん……ちょっと、びっくり……しちゃった…っ……」 地面にポタポタと涙の雫が落ちる。くるみは必死で泣き止もうとするけれど、涙は一向に止まらない。長谷川が手を離し、その手でうつむいているくるみの頭を引き寄せ、もう片方の手で肩を抱き、そのまま胸の中にくるみを抱き締めた。耳元で長谷川が呟く。 「松浦……ごめん…」
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