プロローグ

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1ヶ月前、母親から久しぶりに電話が来た。突然何事かと思い、少し不安げに電話に出たくるみに母親はこう言った。 《来月の6月6日は25歳の誕生日でしょ。週末はこっちに帰って来てね》 「そうだけど。何、急に…何かあるの?」 《うん、くるみ憶えてる? まだあなたが5歳の時に、一度だけ会った『あっくん』っていう男の子》 「ん…? あっくん?」 《ほらぁ、広い庭の池にいた鯉に餌をあげて、怖かったけど楽しかったって。くるみの部屋に写真も飾ってあったでしょ。憶えてない?》 くるみは古い記憶に想いを巡らせ、ふと『あっくん』の笑顔をぼんやりと思い出す。だがその記憶は曖昧で、笑顔をはっきりとは思い出せない。飾ってあった写真は実家のタンスの引き出しの中にあり、離れて暮らすくるみには『あっくん』を思い出す術がなかった。 「あぁ……そういえば、そんな写真あったっけ」 《もう随分前の話でお母さんも忘れていたんだけど、今年のお正月に来た年賀ハガキの中に金崎(かなさき)旅館さんのハガキがあって》 「金崎旅館?」 《あぁ、くるみには言ってなかったわね。金崎旅館っていうのは『あっくん』と会ったあの広い庭がある旅館でね『あっくん』は、そこのお孫さんなのよ》 「えっ…」 《それでね、すぐに和香(わか)ちゃんに電話したの》 和香ちゃんというのは、母親の学生時代からの親友で現在、金崎旅館の女将(おかみ)をしている。親友との事を思い出したのか、母親の声が心なしか明るく弾んでいるように、くるみには聞こえた。 《和香ちゃんと話すのは久しぶりだったから、色んな話をしてつい長電話をしてしまったんだけど、その時にね、昔約束した「私達の子供達を結婚させたいね」っていう話になって、あっくんとくるみの話をしたの》 「そんな約束をしていたの? それで、会わせたって事?」 《そうよ。和香ちゃんには男の子が生まれて、その3年後にウチには女の子が生まれたの。金崎旅館には跡取(あととり)が生まれたけど、ウチは女の子が生まれて跡取がいないでしょ。だから結婚させたいって》 母親から跡取の話をされると、くるみは何も言えなかった。くるみの実家は、老舗(しにせ)呉服(ごふく)店を営んでいる。代々受け継がれて来て、母親は七代目の店主なのだ。 くるみの父親は婿(むこ)養子に入り、松浦呉服店を支えていたのだが、くるみの後に跡取となる男の子を授かる事は出来なかった。母親はくるみの夫となる男性が婿に来てくれるのかという不安もあり、先手を打っていたのだった。 《和香ちゃんはね、あっくんとくるみが結婚したら、松浦呉服店を金崎グループ傘下にして経営して行こうって言ってくれたの》 「って事は、あっくんと私は、政略結婚する事になっていたって事?」 《政略結婚って言ったら、何か嫌な感じがするじゃない? だから5歳の時に合わせてみたの。そしたら、くるみはあっくんを気に入ったみたいだったし、あっくんもくるみを気に入っていたから、そこから恋に発展すればいいなって思っていたんだけど》 思ってもみなかった話で、くるみは言葉も出ず母親の話を聞いていた。 《和香ちゃんのお母様、大女将(おおおかみ)が亡くなられて、旅館は大変だったみたい。それで、あなた達2人を会わせる事が出来ないままだったんだけど、お正月に話した時にあなた達を会わせてみようって事になって》 「えっ……会わせるって…あっくんと私を?」
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