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お互い驚いてしばらく見つめ合っていたが、母親に声を掛けられ松浦は席についた。だがうつむいたまま、顔を上げない。なんだか気まずそうに視線を逸らして困っているように見えた。それもそのはずだ。お互い職場で実家の事は話した事がなく、何一つ知らない。
光広が話さなかった理由は「老舗店の跡取なの?」と訊かれるのが分かっているからだ。たぶん、松浦もそうだろう。それに、兄の敦広が来ると思っていたはずだ。無理もない。
光広達が『顔合わせ』の相手に驚き戸惑っている事など関係なく、母親達が話し始める。話している間、光広はずっと考えていた。自分は親が決めた結婚なんてするつもりはない。『婚前契約』を交わし、3年ほどで離婚しようと思ってこの場に来た。
(だけど松浦……お前は……この場に来たのは、兄貴と結婚しようと思って…?)
光広は焦った。すぐにでも松浦に、この結婚についてどう思っているのか訊きたかった。その事ばかりが頭に浮かび、食事どころではない。松浦も箸が進んでおらず、表情が暗い。痺れを切らして、光広は話しを切り出し松浦を誘う。
足を痺れさせ立てなくて困った顔をする松浦が、可愛くて思わず微笑んで光広は手を差し出す。控え目に指先をそっと置いた松浦の手は、緊張していたのかとても冷たかった。指先だけでは心許なく、光広は松浦の手首の方まで握り引き上げる。手を握り松浦に合わせゆっくりと歩き、サポートしながら庭へ出た。
庭へ出ると少し緊張もとれ、松浦の表情が明るくなり、光広は素直に思った事を口にする。
「綺麗じゃん。着物、似合うんだな」
するといつも強がって反論する松浦が、顔を赤く染めこう言った。
「あ、ありがとう。長谷川だって、カッコいいよ。別人みたい」
そう微笑んで言った松浦に、光広は驚いたが嬉しかった。そして光広は松浦に尋ねる。
「松浦、この結婚をどう考えているんだ?」
訊きたい事は色々とあった。だが光広が一番訊きたかった事を松浦に尋ねると、うつむき少し考えて答えが返って来た。
「長谷川は? お母様から今日の話を聞いて、ここに来たんでしょ。ここに来たって事は、結婚するつもりで来たんじゃないの? 相手は私じゃない他の誰かと…」
(やっぱり、そう思うよな……俺も、松浦がそうじゃないかって思ったぐらいだ)
そう尋ねた松浦の表情は暗く不安そうで、光広は脳裏によぎった想いを隠し、松浦に言った。
「俺は、結婚する気はない」
と。そして光広が考えていた事を詳しく話した。松浦はうつむいたまま返事をしない。光広は少し屈み松浦の顔を覗き込むと、ニヤリと笑って言った。
「なるほど、そういう事か。分かった。私も結婚する気はなかったし、それでお母さん達を納得させられるなら協力するわ」
(結婚する気はなかった? 本当か? じゃ、やっぱり政略結婚は嫌だったんだな…)
そう思い光広は『婚前契約』を持ち掛けた。その話に松浦は頷き、『顔合わせ食事会』の後、2人で契約を交わす約束をした。
だが、そう上手くいかなかった。
光広達が部屋に戻ると、既に母親達で契約を交わし、自署捺印された『婚前契約書』が用意されていた。自分達がどれだけ甘かったのか思い知らされる。
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