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初めて見た松浦の不安そうな顔や泣き顔を見た光広は、少しでも気分転換をさせてやりたくて買い物に出かけた。重い総絞りの着物を着替えさせ、これから同居する家に連れ帰り、今後の事を話すつもりでいた。
松浦に着替えさせている間、光広は母親から受け取った『婚前契約書』のコピーを見て考えていた。旅館でこの『婚前契約書』の内容を見た時、光広は驚き焦って気が動転したが、よく内容を確認するときちんと書いてある。
5項目めに『婚姻を継続しがたい事由として、次のものを離婚と認める』とある。契約に違反した時、家庭内暴力や不貞行為などを起こした時には、離婚を認める。その事に気づいた光広は、自分の『婚前契約書』がなくても離婚する事が出来る為、松浦にそう話して2人の契約話を白紙に戻した。
子を成さなければ契約違反で離婚出来る。光広は松浦にそう話すが、松浦は強く反論する。松浦もそれがどれだけ重い事か、どれだけの犠牲が出るのか分かっているからだ。だけど光広は決めたのだ。
『松浦を悲しませ苦しめてしまうなら、跡取は俺で終わらせる。例え多くの犠牲が出たとしても、俺は松浦を守りたい』と。
コーヒーメーカーからカップにコーヒーを入れ、シュガーをスプーンで1杯入れてかき混ぜ、カップに口をつける。
(俺の子を産んでくれるのか? って、つい本音が出ちまった……気をつけないと……これから3年、我慢しないとなぁ……)
「ヤバッ! 早く用意して役所に行かねぇと。あまり遅くなってもアイツが困るな」
光広はコーヒーカップをダイニングテーブルに置き、仕事に行く準備をして、婚姻届を鞄に入れた。カップを取りコーヒーを飲み干して、シンクで洗いカップを元の場所にしまう。急ぎ足で家を出て、車で役所に向かった。
役所の窓口で婚姻届を緊張しながら出す。係員が書類を1つ1つ確認し受理して、微笑み光広に言う。
「ご結婚おめでとうございます」
「あ……ありがとう!」
満面の笑みで光広は係員に返した。
(3年でもいい。ほんのひと時でも、くるみと夫婦になれるなら…それでもいい…)
光広はそう思い笑顔で役所をあとにした。そのまま急いで仕事に向かう。
1階が『トラベラー』の店舗になっているビルの地下駐車場に車を停め、エレベーターで営業本部がある3階に上がる。所長やマネージャーがいるオフィスのドアをノックし中に入って、事の経緯を話し結婚の報告をした。
松浦から預かった健康保険証や年金手帳を提出し『長谷川 くるみ』として、手続きを依頼する。職場では結婚の事は内密にしてもらい、社員証は『松浦 くるみ』のままで仕事が出来るよう話をして、許可を得る。
話を終え、エレベーターで1階におり社員ロッカーに鞄を入れ、社員証を首からかけて、店頭に出た。店は1組の客しかおらず、他の社員が対応していた。
「おはよう」
いつも通り不愛想な挨拶をして、1日が始まる。
「おはよう…」
松浦が挨拶を返し振り返って、光広の顔をジッと見る。
(何としても、守り切ってみせる)
光広は松浦にフッと微笑んで見せ、隣の席に着いた。
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