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プロローグ
「くるみちゃん、こっちであそぼ!」
差し出されたその手はもみじの葉のように大きく指を広げ、満面の笑顔とともにキラキラと煌めいていた。眩しくて瞬いた後、くるみも笑顔でその手をぎゅっと握った。
「あっくん、気をつけて。くるみちゃんを見ててね」
「うんっ!」
母親達の元から離れ、少し年上の男の子に手を引かれて、くるみは広い庭園の中で遊んでいた。
『あっくん』と呼ばれているその男の子とは、その日初めて会った。くるみより3つ上の笑顔の素敵な男の子。くるみの右手を繋いだまま片時も離さず、2人はお互い空いている手で池の鯉に餌を放り投げた。
「きゃぁっ!」
放り投げた餌に鯉が一斉に群がり、くるみが驚いて彼に飛びつく。すると彼はくるみをぎゅっと引き寄せて笑って言う。
「だいじょうぶ、僕がいるよ」
そう言ってくるみに向けた笑顔は優しく、くるみは一瞬であっくんを好きになった。
そして20年後……。
朝の慌ただしい時間、現在8時25分。もう家を出なければ、通勤電車の時刻に間に合わない。くるみは慌てて家を出た。
「もうぉ! 分かったから! じゃあね、切るよっ!」
片手に携帯を持ち、駅へ向かいながら母親からの電話に15分も捉まっていた。
《忘れないでよ! 金曜日の晩には、こっちに帰って来てよ!》
捲し立てるように念を押す母親。その思いとはうらはらに、くるみは適当にあしらう。
「はいはい、もう分かったって!」
《色々、準備があるんだから、分かったわね!》
「あぁーもう、電車来た! じゃあね!」
無理矢理に電話を切り、くるみはため息をついて携帯を鞄にしまった。駅には今着いたところで、上着のポケットからパスケースを出し、電子カードを改札機にタッチして通りホームに向かう。電車が出た後でホームにいる人は少ない。くるみは三号車乗車口の一番前に立ち、電車が来るのを待つ。
「あぁもう、朝から何よ? もっと他に言う事があると思うけど…」
松浦 くるみ、25歳。
大手旅行会社『トラベラー』に勤務して2年を過ぎ3年目に入った。営業成績は上々、今が一番仕事が楽しい時。
鞄にしまった携帯を取り出し、くるみはカレンダーを開き予定を確認する。1ヶ月前から何度も母親から電話があり、週末に予定されている『顔合わせ食事会』の日程や服装といった段取りの話を、耳が痛くなるほど聞かされていた。
5歳の時に初めて会った『あっくんのお嫁さんになる』のだと、母親からずっと聞かされ、その時に撮った2人の写真を子供部屋に飾られていた。だけどあっくんとはその後会う事もなく、やがてくるみが大きくなるにつれ写真はタンスの引き出しにしまわれた。
中学生になったくるみは1つ上の先輩に恋をし、高校生になって交際を始め失恋を経験した。それから何度か恋をしては失恋をし、現在25歳、彼氏はいない。そしてこの週末、もう忘れていた『あっくん』と『顔合わせ食事会』いわゆる『婚約食事会』といわれるものに行く予定になっている。
「もう顔も思い出せないのに…」
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