夏の黄昏

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
『夏の黄昏』  この世に生を受けてから、二十三回目の夏を迎えた。風鈴の音が淋しく響く。今年は例年とは違う夏だった。そのせいだろうか、蝉の鳴き声が、やけに煩わしく思えるのは。  私には弟がいた。同い年の弟だ。兄弟仲は良好で、生まれて此の方ずっと生を共にしてきた。何をするにも大抵は一緒で、己が半身のような存在。それがこの夏は、いない。  今年は、弟がいないままひとりで迎える、初めての夏であった。  グラスにサイダーを注ぎ、テーブルに置く。気づけばグラスを二つ並べている。何か違和感を覚えて、一瞬遅れて思考が追いつく。ああ一つ余分なのだと気がついて、弟がいないことを、或いは私が孤独である事実を突きつけられる。最近といえば、このようなことばかりだ。  両親は三年前、私の成人式の日に、交通事故で亡くなった。以降弟と二人で暮らしてきた。その弟も、今ここにはいない。慣れない孤独は、私の精神を緩やかに蝕んでいくようだった。  弟がいなくなった前日、私は弟と口論をした。その時は家計が少し厳しく、苛ついていた私は弟にひどく当たり、言葉と言葉の殴り合いの末に弟は家を飛び出した。それきりだ。遅くまで帰ってこないからと慌てて捜索に乗り出したが、弟を見たという証言は一切得られなかった。忽然と姿を消し、数ヶ月経った今もなお、彼は戻ってこない。  最後に弟が発した言葉はなんだったか。それすらも記憶していない私は、ああ、なんと薄情なことか。考えてもしかたがないというのに、私の思考はぐるぐると、いつまでも暗く淀んだ場所から抜け出すことができない。  このままじっとしていては気が狂いそうだ。思い立ち、私は外の空気を吸いに家を出た。  私の住む田舎町の端には、鬱蒼と木々が茂る山道がある。気分を切り替えるには絶好だと思い、ひとまずそこへ向かうことにした。  山道の入り口に並ぶ一対の狛犬像は、どちらも耳や尾の先が欠けている。私はそれに軽く一礼し、色褪せた赤い鳥居をくぐった。そこから少し歩くと、おんぼろな小さな祠が見えてくる。  普段なら神頼みなどしない私であるが、最近は足を運ぶ機会が多くなった。気休めに過ぎないのだとわかっていても、なにか贖罪をしなければ、息をすることさえ許されないような気がしていた。  この祠がいつ建てられたものなのか、果ては御神体が何なのか、それさえ知らずに私は手を合わせる。手を合わせ、中身のない懺悔の言葉を小さくこぼして、私は静かに踵を返した。今となってはすっかり習慣化してしまった行動だ。  帰り道、いつもと変わらぬ薄暗い道をしばらく歩いて、どうも雰囲気がおかしいことに気がついた。陽が落ちたせいかとも思ったが、それだけではなさそうだ。何か、形容のできない違和感が、そこかしこに満ちているのである。  ふと、背後に生き物の気配を感じた。はっとして振り返ると、私の後ろに、古めかしい狩衣を着た少年が立っていた。丸く大きな瞳を瞬かせ、興味深そうに私を見上げている。  少年はじっと私を凝視した後、何かを思いついたように目を見開いた。それから彼の小さな手が私の方に伸ばされて、ついてこいと言いたげに腕を引く。突飛な行動に私は驚いたものの、何故だか抗う気にはなれなかった。  不思議な少年に導かれるまま、私は山奥へと走る。少し進むと、開けた場所に出た。さあさあと流れる川を見下ろしながら、はてこんなところはあっただろうかと首を捻る。  少年は立ち止まり、左手で川の向こう岸を指差した。私はその指の先を目で追い――思わずあっ、と声を上げる。  川に架けられた橋の先、よく知る顔がそこにあった。  いなくなったはずの弟が、そこに在ったのである。  嗚呼、なんということだろうか! 罪を重ねた私にさえ、こんな奇跡が許されるのか。あの祠の神は、なんと慈悲深いのだろう。感極まって涙を流す私を見て、向こう側の弟は困ったように微笑んだ。  ここまで連れてきてくれたこの狩衣の少年は、祠の神の遣いか、或いは神そのものなのかもしれない。どうあれ彼には感謝してもしきれない。私は片膝をつき少年と目線を合わせ、礼を言う。少年は恥ずかしそうに笑って返した。  立ち上がり、私は橋を渡り始める。歩を進める。再会を願った弟の元へ。もう会うことはないと思っていた、たった一人の片割れの元へ。  夏の黄昏時のことだった。  橋を渡りきる直前、私のすぐ後ろから、声が聞こえた気がした。 「いただきます」  それはとある兄弟の、最後の夏のこと。  その年、兄弟はいなくなった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!