初めてを思い出す

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 この仕事を始めて、3年になる。開館時間中は接客業が中心で隙間の時間に事務作業の山をこなしていく。閉館後はいよいよ事務作業が本番だ。締切のある報告案件を処理し、定例で進めるべき業務もこなしていく。考えることは山ほどあり、よほどのことがない限り、家に着くのは日付が替わるぎりぎりだ。翌日が休みなら平気で職場で日付をまたぐ。  まだ若いから何とかなっているけれど、あと十年もすればこんなことができるのかなんてわからない。それでも、仕事が綺麗に片付いた、なんて思える日はないのだから困ったものだ。どうしても今日というものだけ終わらせて、本当ならやりたいことになんて手が付けられるはずもない。  そういうわけで、ストレスはどんどん溜まっていく。イライラしたまま接客に当たれば、利用者への対応が悪くなる。それだけはないようにと、うまくなっていくのはつくり笑いばかりだ。  さて、帰りが遅くなってよかったことは、道がすいていることだ。田舎は国道を走っていても街灯なんてほとんどない。真っ暗な道をすいすい走るのは気持ちがいいし、前後や対向の車を気にする必要がほとんどない。ハンドルを握る一人の時間に、愚痴は次から次へと出てくるものだ。  そうやってぐるぐると嫌なことばかりを思い出していると、ふと、誰もいない助手席から声がした。 ――ねぇ、初めての時のことって覚えてる?  初めて? 仕事を始めたときのことってこと? ――そうそう。今の仕事を始めたときのこと。  ……なんとなくは。何やるにしても、緊張してたなぁ。 ――そうだよね。初めてって緊張する。でも、時間が経って慣れてくると、そのことって忘れちゃう。  おれはまあ、そうだけど。初めてのステージってすごい印象に残ってるもんじゃないの? ――だって十年以上も前だよ。全部覚えてるなんて無理。  彼女に会って、もう十年も経つ。確かにその間のことを、全部覚えてはいられない。きっとその時大切だと思ったことでも、今すぐに思い出せないこともあるだろう。 ――それでも覚えてることって言ったら、ここに来られてよかったっていう感情かな。それだけは忘れない。だから私は体が壊れるまで、続けることができた。  個々の現象を忘れたとしても、総体としての感情が積み重なっていく。そうやって人は成長してく。そういう感覚は、確かにわかる。 ――きっと最初がダメだったら、私はここまでこれなかったと思う。だってそもそもスタートがひどかったし。期待をずっと裏切られて、最後、信じてみようって思ったことだったから。  彼女はずっと身体が弱くて、諦めることばかり慣れていた。そんな彼女にとって、初めてが重要だったということは、想像に難くない。 ――だからね、私はいつもそういう人たちに向けてステージに立ってた。いつも来てくれる人も、もちろんありがたかったけど。初めてって特別だから。  初めては一度きりで、その後は慣れだ。慣れが続けば当たり前ができて、それを分からないことが許せなくなっていく。 ――その人にとっては、その日が初めてかもしれない。それどころか、最初で最後って決めてる人だってきっといたと思う。そういう人にこそ、私は声を届けたかった。最初で最後、今日ここに来てよかったって、思ってもらえるように。  自分に当たり前ができると、誰かの初めてに鈍感になる。ストレスがそれに拍車をかけて、相手の初めてを想像することができなくなる。 ――それに、極端に言っちゃえば、同じことなんてないわけで、なんだっていつも初めてなわけだし。そんなふうに考える人はいないかもしれないけど、みんなの今日は、やっぱりこれが最初で最後だから。  想像力の欠如。  視野の狭さ。  結局は相手ではなく、自分に嫌気がさしていたのだ。 ――初めてがよくない思い出になったら、絶対その先ってないから。だから私はいつだって全力だったよ。今日が初めての人のために、最高の私を見せるために。そりゃ、失敗することはあったけど、でも手を抜いたことはなかった。きっとそうやっていくことしかないんだよ。私たちが、自分を好きでいる方法って。  にこりと微笑んで、そこで彼女の気配が消えた。  気配と一緒に、嫌な気持ちが全部消えるなんてことはないけれど。でも彼女のおかげで、イライラはずいぶんと落ち着いた。  また明日も頑張れる。  車を降りると、満天の星空が広がっていた。
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