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そこにようやく口を開いた尊の素っ気ない声音が聞こえてくる。
「これでよくわかっただろう? 俺はあんたを利用しただけであって、礼を返してもらうような謂れはない。これからはビジネスパートナーとして、あんたを雇うことになる」
ふたりを取り巻く車内の張り詰めた空気が緩んで、やっと緊張からも解き放たれ、息をつけるかと思いきや、そうではなかった。
尊の言葉の意味は理解できても、改まってそんなことを言ってきた尊の真意がまったく掴めなかったせいだ。
昨日、礼を返したいと言った自分の言葉を聞き入れてくれたはずだ。
だからこそ、飽きるまで傍に置いてやるから精一杯励めと言ってくれたし。
ひとりにしないでと縋った言葉を聞き入れてもくれた。
今からお前は俺だけのものだとも言ってくれたではないか。
ーーそれを今更、どうして? まったく意味がわからない。
「……それは、どういうことですか?」
混乱した美桜は思わず問い返していた。
「まぁ、聞け」
それをピシャリと制した尊は、再び語りはじめる。
「政略結婚するにあたり、天澤家の人間を欺くためにも、籍は入れることにはなる。だが俺はあんたに一切干渉もしないし、あんたは俺に恩を感じる必要もない」
「……それって、政略結婚ではなく、フリだけの偽装結婚ということですか?」
「まぁ、そうなるな。昨夜、あんたを抱かなかったのもそれが理由だ。あのまま欲に流されて抱いたりしたら、堅気の世間知らずなお嬢様を騙してるようで、後味が悪いからなぁ」
ーーということは、昨日は、やっぱり私に反応してくれてたってことなんだ。だったら約束通り、尊さんだけのものにして欲しい。
それを今更、ビジネスパートナーだから一切干渉しないとか。
政略結婚じゃなくて、フリだけの偽装結婚だとか。
ーー今さらそんなこと言わないで欲しい。
尊に対して様々な気持ちが溢れてくる。
そこでふとあることに気づく。
尊はさっきから、美桜のことを『お前』ではなく『あんた』と呼んでいる。
確か、昨日、一線を画すようにして、美桜の元から去ろうとしたときもそうだった。
ホテルで指一本触れる気がないと言ったときもそうだ。
尊は自分から距離を置こうとしているに違いない。
そこまで思い当たったタイミングで、口を開いた尊の予想通りの言葉が思考に割り込んでくる。
「元々、あんたと俺とでは、身を置く世界が違いすぎる」
ーーほら、やっぱりそうだ。こんなにも好きにさせておいて、そんなのズルイ……!
自分の中で一度尊のことを好きだと認めてしまえば、その想いは決壊したダムのように一気に放出する。
「今さらそんなこと言うなんて、ズルイッ! 昨夜、言ってくれたじゃないですか? 今からお前は俺だけのものだって。言ったからにはその責任とって、私を尊さんだけのものにしてくださいッ!」
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